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磐田文化財だより 第4号

シリーズ 磐南地域を知る① 旧磐田市編

写真:磐南地域

平成17年4月1日に新しい磐田市が合併によって誕生しました。市域が拡大し、文化財もさらに豊富になりました。
そこで、「シリーズ 磐南地域を知る」と題して磐田・福田・竜洋・豊田・豊岡の順に旧の市町村ごとに歴史や文化財を写真と解説でご紹介します。

この地域の地理

南北に伸びる磐田市の中央部に位置します。北半分は磐田原台地の上にあり、磐田を代表する産業のひとつである茶畑がひろがります。南半分にひろがるのは田園地帯です。
中央部には北から東名高速道路、磐田バイパス、国道1号線、東海道線、新幹線が東西方向に横断し、東西の交通網が発達しています。新幹線線路から南は低湿地もひろがり、南端はわずかに遠州灘海岸に面しています。

この地域の歴史

磐田原台地には、この周辺では最も早く約2万年前(旧石器時代)に人が住み始めました。
縄文時代・弥生時代には台地の縁辺部や低湿地に集落や墓地が造られ、次第に村々が誕生しました。古墳時代には有力者の墓である古墳が台地上に無数に築かれ、大規模な古墳も多く見つかっています。
奈良時代には生活圏は平野部へ移り、現在の磐田駅周辺に国府(国の役所)が、市役所の北に国分寺が置かれ、遠江の中心として栄えました。
中世には今川氏の守護所が見付に置かれ、北端の「一の谷」には墳墓群が作られました。
近世になると東海道の宿場として見付が栄えました。一方、中泉には徳川家康の別荘 中泉御殿が造られ、代官所も置かれました。水田開発も進み、農業が盛んになりました。
明治時代になると、見付には日本で現存する最古級の小学校旧見付学校が建設されました。赤松則良男爵も邸宅を構え、台地の開墾に取り組みました。
そして、明治以降、数度の合併を繰り返し、昭和23年に磐田市が誕生しました。
以上のように、磐田は旧石器時代から近代まで、地形的な利点と交通の利便性をいかし、人びとの創意工夫によって遠江の中心地として繁栄してきました。

地区ごとの文化財を知ろう!

旧磐田市域は、地理的な特性や歴史的な背景から5つの地区に分けることができます。それぞれの地区には、その地区の特色を物語る特徴的な文化財が存在しています。

北部(大藤・岩田・向笠)

写真:新豊院山2号墳三角縁神獣鏡新豊院山2号墳三角縁神獣鏡

磐田原台地上に無数の古墳があります。
岩田地区の銚子塚(ちょうしづか)古墳と向笠地区の新豊院山(しんぽういんやま)2号墳からは卑弥呼が中国の王から授かった鏡ともいわれる三角縁神獣鏡が1面ずつ出土しています。


中泉

市街地の中に磐田農業高校内の2基や京見塚古墳や土器(かわらけ)塚古墳、庚申(こうしん)塚古墳などが残っています。
奈良時代に国府がおかれたといわれ、江戸時代には中泉御殿や代官所がおかれた現在の磐田駅周辺には、御殿・二之宮遺跡があります。

東部(田原・西貝・御厨・南御厨)

写真:須賀神社の大クス<br />社殿を覆うように大きく枝を広げ、<br />推定樹齢は500年です。須賀神社の大クス:
社殿を覆うように大きく枝を広げ、
推定樹齢は500年です。

この地区には御厨古墳群や堂山古墳、二子塚古墳などの大規模な古墳があります。
西貝地区には縄文時代の西貝塚遺跡が広がっています。
田原地区の松並木は旧東海道の面影をよく残しています。
須賀神社の大クスや袴田家のマキなどの天然記念物もこの地区にあります。


見付

写真:見付天神裸祭/今年は9月10・11日です!見付天神裸祭/今年は9月10・11日です!

平安時代に国府(国の役所)が置かれたといわれています。
江戸時代には、東海道の宿場として栄え旧東海道の両脇には一里塚が残されています。
明治・大正時代の小学校 旧見付学校や赤松則良男爵の邸宅跡である旧赤松家、見付天神裸祭が行われる矢奈比売神社など見どころがたくさんあります。
国分寺跡は史跡公園となっています。


南部(天竜・長野・於保)

天竜地区には旧磐田市域南端の古墳、観音山古墳があります。白鳳時代の寺院跡である大宝院廃寺遺跡は発掘調査で寺の範囲がほぼわかりました。
長野地区には江戸時代の代官所の門が移築されて残っています。
於保地区にある古墳時代の浜部遺跡は、旧磐田市域で最南端の遺跡です。

思わず人に話したくなる磐田の文化財 第3回 旧見付学校附磐田文庫編

今回は、昭和44年4月にその敷地も含め、磐田文庫と共に国の史跡に指定された旧見付学校を紹介します。旧見付学校は8月に新築・開校130年を迎え、秋に記念イベントも予定されています。

棟梁はパリ万国博覧会での入賞者!

写真:背後の森(塔の壇)の緑に白壁がよく映えています背後の森(塔の壇)の緑に白壁がよく映えています
写真:旧見付学校がデザインされた“いわた茶”の缶ドリンク旧見付学校がデザインされた“いわた茶”の缶ドリンク

旧見付学校の校舎は、見付のシンボルともいえるオシャレな建物で、平成15年に誕生した“いわた茶”の缶ドリンクのラベルにも主役級で登場しています。
それもそのはず、工事を担当したのはパリの万国博覧会でも評価された後の第9代伊藤平左衛門です。伊藤平左衛門は、後に愛知県や三重県の庁舎、東本願寺御影堂、旧築地本願寺なども手がけた名工です。


工期10ヶ月で完成

見付学校は、明治5年(1872)の学制頒布に伴い明治6年(1873)8月に宣光寺や省光寺を仮校舎として開校しましたが、同時に新校舎の建設も計画されました。明治7年(1874)10月には工事に着手し、明治8年(1875)1月には上棟式が行われ、同年8月には落成しています。
校舎は現在より1階少ない4階建て(2階2層)で、現在と同じ5階建て(3階2層)となったのは、就学児童数の増加に対応するため増築を行った明治16年(1883)以降です。


もっと光を!!

勉強をする上で明るさは重要ですが当時は照明器具も充実していませんでした。少しでも明るさを補うため、見付学校の教室では天井に和紙を貼るなどの工夫が行われています。
ちなみに、現在では教室等の明るさは300ルクス以上でなければならないと学校環境衛生の基準の中で文部科学省が定めています。

大地震に耐えた!!

昭和19年(1944)12月に東南海地震が起こり、見付でも全壊13戸、半壊18戸の被害が出ました。しかし、すでに大正11年(1922)に小学校としての役割を終え、築70年を迎えようとしていた旧見付学校に大きな被害はありませんでした。児童の重さに耐えられるよう床板を厚く斜張りにしたり、柱と梁に方杖(ほおづえ:隅に入れる斜材)を施したりしていた工夫が耐震力の向上につながったと思われます。
そのおかげで改修工事は行われたものの、現在も教育資料館としての使用が可能なのです。

“中のお宮”の神主さんの活躍

写真:こんなところにも旧見付学校が!磐田郵便局横のさわやかハウス(公衆トイレ)こんなところにも旧見付学校が!
磐田郵便局横のさわやかハウス(公衆トイレ)

見付学校の建設には、今も“中のお宮”として親しまれている淡海国玉(おうみくにたま)神社の神官 大久保忠利が境内の一部を寄付するなどの協力をしています。
大久保家は、元治元年(1864)に忠利の義父 大久保忠尚(ただなお)が約850冊の日本や中国の本を集めた図書館“磐田文庫”を神社境内につくるなど、幕末から明治にかけて遠州地域の教育に大きく貢献しました。
なお、この大久保家は、明治維新の際に忠尚の長男 春野が遠州報国隊を結成して倒幕軍に参加したり、維新後も東京招魂社(後の靖国神社)の設立に力を尽くしたりするなど、日本の近代史の中でも活躍しました。


小さな博物館(7~9月)西貝塚遺跡

市役所本庁舎市民ホールの「小さな博物館」の展示内容が7月1日からかわりました。9月末まで磐田市西貝塚にある西貝塚遺跡について最新の発掘調査も交じえてご紹介します。

写真:西貝塚遺跡から出土した縄文土器西貝塚遺跡から出土した縄文土器

この遺跡は、その名のとおり縄文時代後期(約4~5千年前)の貝塚(古代人が食べた貝の殻などが積み重なったもの)が残るムラの跡です。
見つかった貝殻のほとんどが海水と淡水が混じり合ったところを好むヤマトシジミだったことから、当時の西貝塚地域がすぐそばまで海水が入り込む地形をしていたことがわかります。 貝塚からは、貝や骨で作られた銛(もり)や釣り針、魚を採る網につけるおもりなど、漁労に関する道具もたくさん見つかり、西貝塚地域に住んでいた当時の人々の暮らしぶりの一端がうかがえます。

写真:骨で作られた銛、やじり、石のおもり骨で作られた銛、やじり、石のおもり

最近の下水道工事や住宅建築工事に伴う発掘調査からも、西貝塚には現在でも貝塚が良好な状態で残っていることがわかっています。
本庁舎に寄られた際には、「小さな博物館」をよろしくお願いします。場所は国分寺の復元模型の隣です。

コラム
- 東海道に残されたひとつの歴史 掛塚湊哀歌 - 文化財課 佐藤 喜好

写真:掛塚の町並みに残る廻船問屋の建物掛塚の町並みに残る廻船問屋の建物

竜洋町史編さん室の佐藤です。「(旧)竜洋町には埋蔵文化財は無い」と長い間いわれてきました。確かに古い歴史をとどめたものは少ないというのが一般的な見方でしょう。
しかし、江戸時代のはじめに徳川家康が天竜川の水運を開拓させたため、河口にあった掛塚湊が上流で産出する木材などを江戸や大坂へ運ぶための積出港として繁栄したことは広く知られています。幕府直轄の天領だったにもかかわらず、掛塚を浜松藩の殿様がどうしても欲しがったと聞けば、その繁栄ぶりがうかがえるのではないのでしょうか?
物資輸送を担った廻船問屋も江戸時代後期に20軒以上を数え、最盛期の明治20年代には千石積以上の船を含め80隻余りを所有していました。
湊を出入りする船も年間200隻を数え、海の東海道ともいえる繁栄ぶりでした。
しかし、鉄道輸送の発達によって海運は衰退し、今は掛塚湊もありません。ただ、町並みや祭屋台に街道一とも謳われた往時の賑わいがほのかに感じられるのみです。
掛塚の他にも磐田市のあちらこちらには、過去の賑わいのなごりがひっそりと息づいています。中泉代官所や池田の渡船場‥歴史に想いを馳せながら、その面影を探しに出かけてみてはいかがでしょうか。

編集後記

今回ご紹介した旧見付学校から6月1日に「旧見付学校だより」が創刊(年4回発行予定)されました。ここでは紹介しきれなかった展示物や行われる模擬授業などのイベントについても紹介されていますので、旧見付学校を訪れた際にはぜひご覧ください。(Y)

  

情報発信元
磐田市教育委員会 文化財課(磐田市埋蔵文化財センター内)
電話番号:0538-32-9699

受付時間:午前8時30分~午後5時15分

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