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磐田文化財だより 第9号

シリーズ 磐南地域を知る ③竜洋編

竜洋地域の地理(下の地図参照)

写真:磐南地域

南北に長い磐田市の南西部に位置し、西は天竜川、南は太平洋に面しています。「竜洋」の名は、ここからきています。
現在、磐田市の西側を流れる天竜川は、かつては竜洋中島の南あたりで2本に分かれていました。そのうちの1本であった天竜川東派川(東天竜川とも呼ばれていました)は、以前から河川敷を近隣の人々が農作物の栽培などに利用していましたが、昭和19年に締め切られ、町の中央に4.16km2町の面積の何と17%!)もの土地がもたらされました。

竜洋地域の歴史(下の地図参照)

写真:竜洋地域の史跡地図竜洋地域の史跡地図
中央を蛇行して天竜川東派川が流れていました

かつて氾濫を繰り返した天竜川の河口には人は住めないと思われ、竜洋町は「遺跡の無い町」とまでいわれることもありました。
しかし、川原を散策していた住民が偶然土中から茶碗片のようなものを見つけたことにより東大塚天竜川河床遺跡が発見され、この考えは覆されました。平成7年の発掘調査では、古墳時代の土器に加え奈良時代の土器が多数出土し、炭や焼土の広がりも確認され、今から1300年ほど前の人々がここで生活していたことが分かりました。
ところが、この場所で生活できたのは、わずか150年か200年だったようで、平安時代前半から平安時代後半の土器は見つかりませんでした。天竜川が9世紀後半頃に氾濫し大きく東へ流れを変え、この地での生活が難しくなってしまったのかもしれません。
別の地点からは、水田跡と推定される畦の跡や用排水路と推定される溝が発見され、付近から平安時代から鎌倉時代と考えられる土器が出土しました。天竜川の氾濫がおさまった今から900年ほど前に再び人々が生活を始めたようです。この遺跡は、当時この地域にあった松尾神社(京都)の荘園・池田荘の南西部に位置し、同じ時期には平重盛により竜洋中島の蓮覚寺も創建されたと伝えられています。
しかし、再びわずか150年か200年の後、天竜川の流路が変わりこの地域は人が住めなくなったようで、遺跡から13世紀後半の土器は見つかっていません。
その後、16世紀中頃から掛塚が湊としての機能を発揮しはじめたと思われ、様々な文献に「掛塚湊」や「貴船神社」などが登場します。
そして、江戸時代に徳川家康が京都の豪商・角倉了以に命じ天竜川の舟運を開発させたことで、河口の掛塚湊は上流の木材や産物を江戸や大坂に運ぶ遠州の一大拠点となりました。数少ない天領の湊として掛塚湊は繁栄を極めましたが、明治22年の東海道線開通などによって衰退してしまいました。
昭和15年からは、海岸に面す200haもの広大で肥沃な農地(当時の袖浦村の面積の20%超!)を飛行場に変える「明野陸軍飛行学校天竜分教場」の建設工事が始まりました。既に昭和10年から着工していた天竜川東派川の締め切り工事の完成も、後には明野陸軍飛行部隊天竜隊が置かれたこの飛行場を水害から守るため急がれたともいわれています。
終戦後、飛行場の廃止や締め切り工事によって生まれた土地は、竜洋中学校・なぎの木会館・老人福祉センターなどの公用地や肥沃な農地としてだけでなく、工業用地としても活用され、この地域の発展の原動力となりました。
そのため、スズキ(株)のテストコースがあるほか自動車部品工場が集まり、ピアノ製造業も木材の乾燥から組立工場まであるなど楽器産業も盛んなのです。

歴史学習会 講演会のお知らせ
「明治期の竜洋地域」 - 村と地域の運営・掛塚港湾の築港・近代教育の成立と学力競争 -
竜洋町史編さん委員 荒川章二・齋藤新・川崎文昭 各氏

とき:12月17日(土)13:30~15:30 ところ:竜洋公民館(なぎの木会館)
対象:興味のある方(参加費無料) 定員:80名(直接会場までお越しください)

※ お問い合わせは、磐田市文化財課竜洋町史編さん室(電話:0538(66)7715)まで

竜洋地域の文化財

写真:大当町屋台大当町屋台
最古(伝寛政10年作)の掛塚屋台写真:秋葉山常夜燈(高木)秋葉山常夜燈(高木)
繊細な彫刻は必見です

竜洋といえば貴船神社で毎年10月に行われる掛塚まつりがあまりにも有名です。華麗な屋台の曳き回しの際に奏でられる掛塚祭屋台囃子といわれるお囃子は、この地域にあっては珍しく都の優雅さを醸し出していて素晴らしいといわれています。出船囃子と入船囃子、神楽囃子、馬鹿囃子、大庭囃子、本囃子、道囃子、そして最も掛塚まつりらしいお公家囃子の8曲は、昭和45年6月に静岡県指定文化財に指定されました。
これらは、南北朝時代に井伊の谷(現浜松市)に向かう途中、大風のために「白羽の濱」に上陸した宗良親王(後醍醐天皇の皇子)の随員によって伝授されたと伝えられ、白羽の濱が現在の竜洋海岸あたりではないかと考える人もいます。
ろうそくの明かりの中でお囃子に彩られて屋台が細い路地を巡行する様子は、京都の祇園祭りのような風情があるともいわれ、貴船神社に屋台が集結する祭りのハイライトとは一味違った趣を持っています。
もう一つの特徴的な文化財に秋葉山常夜燈があります。木材の集積地だった掛塚には、木挽きや建具職人、鋸鍛冶、大工など腕のいい職人が集まりました。これらの職人は近隣で腕前を発揮しましたが、高木(明治元年9月建造)と野崎(明治4年9月建造)の常夜燈はこうした大工たちが明治初期に手がけた作品で、龍燈形式で素晴らしい彫刻と屋根瓦を備えています。

思わず人に話したくなる磐田の文化財 第8回 府八幡宮楼門編

今回は“八幡さま”として親しまれている中泉の府八幡宮にある楼門を紹介します。江戸時代初期に建立されたと伝えられるこの門、は昭和30年2月25日に県文化財に指定されました。

二階建て?

写真:府八幡楼門府八幡楼門
駅前通りからそれほど離れていませんが静寂な
雰囲気に包まれています

二階建ての門のことを楼門といいます。名前が示すように、この門も屋根は二階部分にあるだけですが、二層構造をし、10.5mの高さがあります。
桃山時代からの純和風の伝統を受け継いでいるといわれ、特徴的なのは柿葺きという薄い木片を重ねて敷き詰めた屋根の軒先を大きく広げた優美なかたちです。

軒を支える部材を三手先斗栱という組物によって3段にせり出させたり、屋根を支える部材であった垂木を二軒といって2段につなげたりした工夫から間近から見上げると屋根だけでなく、門自体も実際より大きく感じられます。

国府を守護した神社の門

写真:下から見上げた屋根下から見上げた屋根
部材を複雑に組み合わせた三手先斗栱(右下)と二軒
で整然と並んだ垂木の様子がよくわかります

この楼門がある府八幡宮は、天武天皇の曽孫である桜井王が遠江国司(守)として赴任した際に国府を守護するため、庁舎内に八幡三神とも呼ばれる足仲彦命(仲哀天皇)と誉田別命(応神天皇)、気長足姫命(神功皇后)をまつったのがそのはじまりであると伝えられています。桜井王が遠江国司であったのは全国に国分寺を建立するように命令を出した聖武天皇の時代ですので、府八幡宮は1200年以上の伝統を誇る由緒正しい神社なのです。

仏教の影響?

写真:随身像随身像(扉口向かって右)
木製の格子の奥で目を光らせています

この門の形式は、扉口の両側に神社を護る武官姿の随身像が置かれているため、随身門ともいわれますが、これは神社本来のものではなく寺院での仁王像配置をなぞらえたものであるとの説もある形式です。
八幡神は、仏教と密接に結びつき八幡大菩薩として広く信仰されました。
この府八幡宮にも、境内に建立された神宮寺の築地塀(一部)や僧形八幡神像(頭を丸めて袈裟を着た八幡神像)等、明治の神仏分離令以前の様子がうかがえる貴重な史料がいくつか残っています。
また、府八幡宮は勧請されたと伝えられる時期とその隣接する位置関係から国分寺と何らかの関わりがあったのではないかとも考えられています。

八幡神は、源氏にも守護神として敬われ、広く武神として武家から信仰を集めました。この楼門も徳川幕府第二代将軍秀忠の娘東福門院(後水尾天皇の后)の寄付によって本殿とともに建造されたと伝えられ、寛永12年(1635)に建立されたとの記録が残っています。
府八幡宮には、静岡県の県の森百撰にも選ばれた自然林「八幡の森」に包み込まれ楼門のほか様々な貴重な文化財が点在しています。

武家にも敬われた八幡神

八幡神は、源氏にも守護神として敬われ、広く武神として武家から信仰を集めました。この楼門も徳川幕府第二代将軍秀忠の娘東福門院(後水尾天皇の后)の寄付によって本殿とともに建造されたと伝えられ、寛永12年(1635)に建立されたとの記録が残っています。
府八幡宮には、静岡県の県の森百撰にも選ばれた自然林「八幡の森」に包み込まれ楼門のほか様々な貴重な文化財が点在しています。

町史編さん室だより -豊田町史編さん室①-

編さん事業と資料整理

旧豊田町では、昭和60年度から合併30周年記念事業として町史誌編さん委員会を立ち上げ、平成12年度に10巻の町誌を刊行し終了しました。しかし、資料が後から後から出てきて整理が追いつかず平成13年度から再び整理に取り掛かり、現在まで郷土資料集1冊と目録3冊を発行し、更に来年3月には目録を1冊発行する予定です。

資料の発掘と保存

町史研究が始まったのは昭和40年代後半でしたが、当時は家の建て替えラッシュでした。「豊田町郷土を研究する会」の会員は、家を壊すと聞くと駆けつけ、燃やしている最中の史料も発掘したといいます。地域の共同体も急激な変化の真っ只中でしたが、しきたりなどをよく知るお年寄りがまだ多くいたこの時点で聞き取り調査を行うことができたのは大きな成果でした。
編さん事業も会員の声によって比較的早い時期に立ち上がりました。本を出したことはもちろんですが、資料・記録が残ったということはそれ以上の意義があります。地域の歴史財産として永久に保存し、後世に伝えていきたいものです。
特に「熊野御前」と「池田の渡船」は、新磐田市としても全国発信できる歴史資源であると思います。
〔詳しくは通史編と別編Ⅰ「東海道と天竜川池田渡船」をご覧ください〕

文化財展示会「古代鏡の美」のお知らせ
故渡辺晁啓氏によって集められた古代鏡のコレクションのうち約100点を展示します。
とき:12月17日(土)~1月15日(日)火曜~金曜9:00~18:00土曜・日曜9:00~17:00
ところ:中央図書館展示室

※ 併せて下の編集後記欄もご覧下さい

コラム - 赤松則良の17人の子供たち、その係累の豪華さ! - 旧赤松家記念館 鈴木滿歸雄

赤松則良は、妻の貞との間に17人の子供をもうけました(内3人は夭折)が、彼らは成人後、それぞれ、我々では考えられない方々とつながりを持ちました。
例えば、長男範一は、将軍家定の脈をとった奥医師法眼遠田澄庵の孫娘澄子と結婚。次男喬二は、元老院議官や学習院院長、清国公使等を歴任した大鳥圭介五女いなと結婚。三男盛三は、岩倉遣米使節団随行、一等議官、貴族院議員の何禮之の家を継ぐ。四男庸男は、上杉謙信家老職の色部家を継ぎ十六代当主となり、その妻は侯爵広幡家で、皇后大夫を務めた忠康の妹庸子。五男小寅は、旧幕臣、海軍主計大佐、徳川慶喜公爵家家令を務めた三輪修三の長女と結婚。七男酉乙は、西周家を継ぎ、海軍中将、有栖川宮宮務官、貴族院議員の紳六郎の嗣子。(女性の方々については、機会があれば紹介します)
この豪華な係累!華族であれば当たり前、と言えばそれまでですが・・・。
しかし、最近、私は則良を知れば知るほど、則良自身の「人となり・人間性」が大きく働いているのではと感じるようになりました。勿論、則良は野心家でも策士でもありません。心の広さ、すうっと相手の懐に入って隣人になってしまう、そうした日本人にない感覚が、このような人脈、係累づくりになっているのでは、と。いかがでしょうか?

編集後記

永く磐田市の文化財保護審議会委員長も務められた故渡辺晁啓氏によって収集された青銅鏡は、中国・戦国式鏡から江戸時代末期の柄鏡までに渡り、質量共に希有なコレクションといえます。
今回、市に寄贈された574点から古墳時代に関する史料を中心に約100点を展示する予定です。(Y)

  

情報発信元
磐田市教育委員会 文化財課(磐田市埋蔵文化財センター内)
電話番号:0538-32-9699

受付時間:午前8時30分~午後5時15分

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