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磐田文化財だより 第25号

遭難船を救う‐大日本帝国水難救済会掛塚救難所‐

写真:大日本帝国水難救済会掛塚救難所 大日本帝国水難救済会掛塚救難所

  • 写真:掛塚救難所駒場支所 掛塚救難所駒場支所
  • 写真:帝国水難救済会掛塚救難所救助手任命書 帝国水難救済会掛塚救難所救助手任命書

掛塚救難所とは

江戸・明治時代と 掛塚 ( かけつか ) は 湊町 ( みなとまち ) として栄え、掛塚湊には木材などの物資の輸送をするため1年を通じて多くの船が出入りしていました。しかしながら、掛塚湊は天竜川の河口にできた湊で河口付近には浅瀬が多く、 座礁 ( ざしょう ) する船も数多くありました。そのような状況の中、地元の働きかけもあり明治32年3月に海難救助を目的とした大日本帝国水難救済会の掛塚救難所が設置されました。大日本帝国水難救済会は明治22年に設立され、静岡県内では掛塚以外に下田、御前崎に設置されました。

掛塚救難所の建物は、現在の掛塚(蟹町)に建てられ、 杉皮葺 ( すぎかわぶ ) きの平屋で間口5間奥行3間、坪数15坪の小さな建物でした。また、掛塚救難所には駒場組合船が付設されていましたが、明治32年12月には掛塚救難所駒場支所もできました。

掛塚救難所の初代の所長は設置請願運動のまとめ役でありました加藤猪之吉でした。明治32年3月末時点で救難所の役員は、所長1名、救助夫長1名、看守(かんしゅ)長(ちょう)1名、組長5名、副組長5名、看守1名、救助夫55名で構成されていました。大正4年、掛塚救難所には救助夫45人、駒場支所には124人の救助夫がいて、全国的に見ても渡波救難所江ノ島支所、東京救難所深川支所に次ぐ大規模なものでありました。

救難所の服装は、所長以下看守は 羅紗 ( らしゃ ) 生地の服を着て、制帽には金色の 刺繍 ( ししゅう ) で浪の中央に赤色の「水」の字、銀色の浮輪の 徽章 ( きしょう ) がついていました。救助夫は、キャラコ生地で、制帽は紅白色を配分し、金色の「水」の刺繍がされ、紐で締めていました。

  • 写真:救難所所長制帽 救難所所長制帽
  • 写真:救難所所長徽章 救難所所長徽章 救難所の救助活動

明治32年4月17日の「遭難船救助報告」(『竜洋町史 民俗編』)には愛知県の 常滑 ( とこなめ ) 港へ向かう石を積んだ船が天竜川沖で遭難し、掛塚の救難所の人たちが救助した記録が掲載されています。

明治34年には掛塚湊に所属していた喜興丸が 錨 ( いかり ) を上げて出船しようとしたときに、東南の風が吹き潮の速い流れに流され、掛塚湊の西海岸に座礁しました。その際にも、掛塚救難所の人たちが全力を尽くして船体に近づき、船員、船体ともに救助した記録も残っています。遭難船を救助した救助夫にはそれぞれ1円の贈与金が支払われていました。(明治40年:当時米1俵あたり4円72銭)

日露戦争時、敵国の船舶を発見した場合には警察へすぐに通報するよう義務を負っていました。また、太平洋戦争時は救済会の建物を敵機発見の監視所にしていたようです。

掛塚救難所については、解散の時期がいつ頃であったのかなど不明な部分もあり現在調査中です。当時の写真や資料等がありましたら文化財課地域史編さん室までご連絡ください。(地域史編さん室 竜洋庁舎内 電話0538-66-9111)

もっともっと知りたい磐田の歴史

第1回  秋葉山 ( あきはさん ) 常夜灯 ( じょうやとう )

磐田市には国や県、市の指定文化財が数多くありますが、指定文化財だけが文化財ではありません。皆さんの住んでいる場所のすぐそば、普段何気なく見ているものの中にも文化財はあります。今回から皆さんにもっともっと磐田の歴史を知ってもらうために、市内にあるいろいろな文化財にスポットをあてて紹介していきます。第1回は「秋葉山常夜灯」です 。

  • 写真:前野の秋葉山常夜灯 前野の秋葉山常夜灯
  • 写真:高木の秋葉山常夜灯 高木の秋葉山常夜灯

火防 の神― 秋葉三尺坊大権現 ―

浜松市春野町の秋葉山は火防の神として広く人々の信仰を集めました。現在では明治の神仏分離令によって、秋葉山は秋葉神社、秋葉寺、 可睡斎 ( かすいさい ) (袋井市)の3ヶ所に分かれました。伝承によれば、三尺坊は 観音菩薩 ( かんのんぼさつ ) の 化身 ( けしん ) として信州に生まれ、修行によってカラス 天狗 ( てんぐ ) となり、白い狐に乗って秋葉山に至り守護神となったとされています。

秋葉山を拠点とする 修験者 ( しゅげんじゃ ) たちの活動により信仰が徐々に拡大しました。江戸時代中期には、関東・中部地方を中心に多くの 参詣 ( さんけい ) 者が訪れ、民衆だけでなく武士や貴族の信仰をも集めました 。

路傍 ( ろぼう ) に残る秋葉山常夜灯

磐田をはじめ遠州地方には数多くの秋葉山常夜灯が残っています。入り口や辻、橋のたもとなどムラの要所に設けられ、毎夜火がともされ、現在の街灯の役割を果たしていました。多くの人々が秋葉の神を信仰し、生活に密着したものだったかがわかります。

また、常夜灯は街灯としての役割だけでなく、地域で火事を出さないことを願って建てられました。組ごとに順番で代参して火防のお札を持ち帰り、常夜灯に入れたり、各家に配る 秋葉講 ( あきはこう ) が行われたりしました。現在でも行っている地区があります。

写真:見付(河原町)の秋葉山常夜灯 見付(河原町)の秋葉山常夜灯

秋葉山常夜灯の形には石燈籠、 鞘堂 ( さやどう ) に入ったもの、 瓦葺 ( かわらぶ ) きのものなどがあります。石造りのものは形や彫られた文字、木造のものは彫刻や瓦などに様々なバリエーションが見られます。秋葉信仰を今に伝える文化財として、地区の人々の手で守られています。皆さんが普段よく通る道にも立っているかも知れません。ぜひ探してみてください。

小さな博物館(4~6月) 新平山遺跡

市役所市民ホールの「小さな博物館」の展示品が4月から変わります

写真:A4号墳の石室で使われていた石A4号墳の石室で使われていた石

新平山遺跡は豊岡地区下野部の新平山工業団地がある丘陵地に位置します。ちなみに遺跡名も工業団地名も漢字で新平山と書きますが、遺跡の名前は(しんべいやま)と読み、工業団地名は(しんひらやま)と読みます。

この遺跡からは縄文時代の炉跡や弥生時代後期から古墳時代後期にかけての住居跡のほか、古墳29基も発見されています。これらの古墳のうちA4号墳からは須恵器のほか大刀、鏡、馬具など多彩な装身具が出土しました。現在工業団地敷地内で、A4号墳の石室で使われていた石を見ることができます。

コラム -古代の瓦の色- 安藤寛

写真:元興寺極楽坊の瓦 元興寺極楽坊の瓦

1月に遠江国分寺跡の発掘調査で現地説明会を行った際に、火災にあって赤くなった瓦がたくさん出土した、と説明をしたところ、何人かの方から「本来はどんな色をしているのですか?」という質問を受けました。

国分寺から出土する瓦には、灰色、青灰色、黄色、 黄褐色 ( おうかっしょく ) 、赤褐色など様々な色が見られます。瓦は 窯 ( かま ) に入れて 焼成 ( しょうせい ) するのですが、そのときに酸素が多く入ると赤っぽい色となり、酸素が少ないと灰色っぽい色となります。酸素が少なくて焼く温度が高く(1200~1300度くらい)なると、灰色~青灰色の、硬くて丈夫な瓦になるといわれています。ちなみに、黒色の瓦が使われるのは中世以降になってからです。奈良市にある 元興寺 ( がんごうじ ) 極楽坊 ( ごくらくぼう ) (国宝)は鎌倉時代に改築されていますが、今から1,300年以上前の 飛鳥 ( あすか ) 時代の瓦が、現在でも屋根にのっています。黒っぽい瓦の中に黄色や茶色、灰色などの瓦を見ることができます。私も初めて見たときにとても感動しました。古代の瓦を見たいという方は、ぜひ一度ご覧になってみてはいかがでしょうか。

編集後記

早いもので文化財だよりを担当して1年になります。磐田に長年住んでいますが、磐田の歴史については知らないことばかり、毎月原稿を作るたびに「へぇ~」「ふぅ~ん」と感心しています。本当に勉強になります。(ひ)

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