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磐田文化財だより 第33号

磐田でいちばん小さい方墳(ほうふん)、新発見!

写真:向笠西原古墳群全体図▲向笠西原古墳群全体図

向笠(むかさ)西原(にしはら)古墳群発掘調査速報 今年7月から11月まで、市内向笠西の向笠西原古墳群で、畑地改良に伴う発掘調査を行い、4基の古墳を調査しました。1基は方墳(平面形が四角い古墳)で残りの3基は円墳(平面形が丸い古墳)です。今回の調査の成果を紹介します。

向笠西原古墳群とは?

今回新たに見つかった3基(8~10基)を含めて、10基からなる古墳群です。磐田原台地東縁の太田川を見下ろす細長い尾根上に点在します。すぐ東側を南北方向に走る県道によって尾根が分断され、先端部にあった5基の古墳は土取りによってすでに削り取られて残っていません。

見つかった古墳

  • 写真:上空からみた調査地(上が東) ▲上空からみた調査地(上が東)
  • 写真:土器が出土したようす(9号墳周溝) ▲土器が出土したようす(9号墳周溝)
  • 写真:崩れた石を取り除く作業風景(10号墳) ▲崩れた石を取り除く作業風景(10号墳)
2号墳

調査地の東端に位置します。古墳の盛土が残っていて、調査前から古墳の存在がわかっていました。土取りによって東側3分の1は残存しませんが、径14mの円墳と考えられます。4基の中では最も大きい古墳です。埋葬施設(まいそうしせつ)は見つかっていません。周溝(しゅうこう:周りに掘られた溝)から、土器の破片が出土しました。

8号墳

径7mの円墳です。盛土(もりど)と埋葬施設は見つかっていません。周溝の南西部からは土器の破片が、東部からは鉄鏃(てつぞく:鉄のやじり)が見つかりました。これらはもともと埋葬施設に入れられたものが、後に位置を動かされたと考えられます。

9号墳

径8mの円墳です。盛土と埋葬施設は見つかっていません。周溝の北東部でお供(そな)え用の土器(高坏(たかつき))が2点出土しました。

10号墳

北辺は道路によって壊されて残っていませんでしたが、一辺が7mの方墳と考えられます。東辺は直線的ではなくやや湾曲します。埋葬施設は見つかっていません。1,000個を超す石が周溝の中に崩れ落ちた状態で見つかりました。この崩れた石を取り除くと、古墳の盛り土が崩れないように土留めの役割を果たした葺石(ふきいし)がきれいに並べられていました。石はこぶしよりひとまわり大きいサイズです。石の隙間(すきま)から土器の破片が見つかりました。

今回調査した4基の中では10号墳だけ葺石が貼(は)られています。葺石を持つ古墳はめずらしく、磐田市内でも数例しかみつかっていません。

調査でわかったこと

写真:10号墳の葺石(南から) ▲10号墳の葺石(南から)

これらの古墳は、6世紀後半(約1,450年前)から造られるようになる横穴式石室の埋葬施設を持たないこと、見つかった土器の形などから、6世紀前半(約1,500年前)に次々に造られた古墳であると考えられます。
また、ほぼ同じ時期に同じ場所で造られた古墳の中にあって、10号墳だけが葺石をもつ方墳であることから、葬られた人の特殊性を推測することができます。

めずらしい!磐田一小さい方墳

これまで磐田市内で見つかっている主な葺石をもつ方墳は、堂山3号墳(西貝塚)、明ケ島5号墳(明ケ島)、八幡神社南古墳(新貝)などです。これらの古墳はそれぞれ一辺が24m、19m、14mの規模です。一方、向笠西原10号墳は、一辺の規模が7mとこれらの半分以下です。磐田で一番小さい方墳です。

もっともっと知りたい磐田の歴史

第7回 掛塚港と掛塚灯台編

遠州灘沖は難所だった!

写真:空から見た天竜川河口付近と遠州灘 ▲空から見た天竜川河口付近と遠州灘

竜洋地区掛塚は江戸時代から明治時代にかけて、天竜川河口付近に掛塚港があり、木材や米などを大阪や江戸へ運ぶための船が行き交い、たいへんにぎわっていました。当時の天竜川はたびたび洪水を引き起こし、大量の土砂を遠州灘沖に押し出しました。遠州灘沖は、これによってできた浅瀬(あさせ)に多くの船が乗り上げ遭難する難所でした。

掛塚灯台の生みの親

写真:明治30年掛塚灯台落成式 ▲明治30年 掛塚灯台落成式

当時、駒場村に住んでいた旧幕臣の荒井信敬(あらいしんけい)は、これを見てたいへん心を痛め、私財を投じてたったひとり灯台の建設にとりかかりました。灯台といっても櫓(やぐら)に種油(たねあぶら)を入れて燃やす程度の高さ7mの簡単なものでした。

駒場(こまば)に造られたこの灯台が、掛塚灯台の始まりです。明治13年(1880)のことです。この後4年間、彼は生活を切り詰め、灯台の補修費や燃料代を捻出(ねんしゅつ)し、灯台を独りで守り続けました。この努力によって、難破する船は減りました。

その後の掛塚灯台

写真:現在の掛塚灯台と風竜 ▲現在の掛塚灯台と風竜

明治30年(1897)、最初の場所から少し離れたところ、天竜川河口の東約1kmに、官設の新灯台が建設されました。上半分が鉄製、下半分がコンクリート製の水面上の高さ17mの灯台です。やがて、木材輸送の中心が鉄道へ変わり、掛塚港は衰退していきましたが、その後も掛塚灯台は平成14年(2002)まで、1世紀あまり遠州灘を照らし沖ゆく船の安全を守ってきました。

現在の掛塚灯台

老朽化した掛塚灯台は、痛みが激しい部分が補強され、平成14年に800m西の竜洋海浜公園内に移設されました。現在も遠州灘を照らし続けています。公園内に造られた風力発電装置「風竜」とともに、公園のシンボルとなっています。

~地域史編さん室だより~ 昭和40年代も、今は昔!

写真:掛塚まつり屋台の完成を祝う踊りの輪 竜洋町史は、来年の通史編発行を目指して、現在、最後の調査を行い、昭和40年代までの写真や資料を探しています。
ここでは、皆様から提供いただきました資料の一部をご紹介します。

(1)駒場地区の航空写真昭和40年頃、飛行機の操縦を習っていた駒場の仲村さんが、飛行場のある名古屋から「駒場」まで、はるばる飛んできて撮ったものです。
(2)テレビ昭和34年の皇太子殿下(今の天皇陛下)御成婚を機に、テレビの普及が進んだ頃に製造されたものです。
(3)掛塚まつり屋台の完成を祝う踊りの輪の写真(上写真)

昭和27年、掛塚田町屋台の完成を祝う踊りの輪。その中心で音楽を奏でるのは、蓄音機です。
昭和40年代といえば、名神高速道路が開通(40年)し、大阪で万国博覧会が開催(45年)されました。竜洋地区では、町水泳大会、卓球大会などが次々に始まり、45年には掛塚橋が無料開放されました。旧竜洋町は、昭和40年代から50年代にかけて人口が急増し、町並みも大きく変わりました。昭和40年から42年が経過、40年代も「今は昔」の話でしょうか。

コラム 来年4月、磐田市歴史文書館がオープン! 水野幸博

平成20年(2008)4月から磐田市竜洋支所2階において、磐田市歴史文書館がオープンします。ここでは、主に近世から近現代における古文書や歴史資料、行政パンフレットや統計資料などを閲覧に供し、郷土の歴史についての問い合わせも受け付けることになります。

磐田市歴史文書館は、県内初の公文書法に基づく施設となりますが、市に寄贈された古文書(私文書)を扱う点が公文書館と異なっています。県内には、行政文書のみを閲覧できる静岡市公文書館と、静岡県史の編さんにより収集された資料を閲覧できる静岡県歴史文化情報センターがありますが、磐田市歴史文書館は両者の機能を兼ね備えた施設といえます。

私は、開館を直前に控えた今年からこのプロジェクトを担当することになりました。現在は閲覧できる資料の目録作りや、館の規約などの体制作りに取り組んでいますが、数万点に及ぶ膨大な資料の整理と管理方法に頭を悩ませる日々が続きます。開館当初は未整理の資料もあるかもしれませんが、実務をこなして経験を積み、利用者の要望も採り入れていく方法で、磐田市の特性に合った歴史文書館を確立していきたいと思います。

編集後記

早いもので今年もあと残りわずかです。この一年を振り返ると、文化財課では実にさまざまな事業があり、その都度、紙面で紹介してきました。ご愛読いただき、ありがとうございました。また来年も充実した紙面にしていきますので引き続きご覧ください。

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