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磐田文化財だより 第45号

太古のジグソーパズル! ~高見丘遺跡群の整理作業報告~

写真:礫を接合している様子礫(れき)を接合している様子(とても根気がいる作業です)

平成18年1月から平成19年3月まで遠州豊田PA周辺土地区画整理事業に伴い高見丘遺跡群の発掘調査が行なわれました。約4万2千m2を調査対象とし、約2万年前の旧石器時代人の活動したあとが数多く発見されました。 石器作りの場が約60箇所確認された他、200基以上の礫群(石蒸し焼き調理に使われた焼石の集まり)、250基以上の配石(はいせき)(石器製作時などの作業台など)が見つかっています。

平成19年4月からは、発掘調査報告書刊行を目指し、出土品や図面、写真などの整理作業を行っています。今回は整理作業の現在の状況を報告します。 現在、主に行っているのは、石器や礫の接合作業です。接合作業とは、バラバラになった破片を接着剤を使ってつなぎ合わせる作業です。

実は、元の形に復元することで、いろいろなことがわかってきます。
まず、石器の接合作業からみてみましょう。

写真:接合した石器 接合した石器
多くの石器が複雑についています 写真:石器作りの跡と礫群が重なって出土した様子 石器作りの跡と礫群が重なって出土した様子写真:接合した礫群の礫 接合した礫群(れきぐん)の礫

高見丘遺跡群では約4,500点の石器が見つかりましたが、この内、ナイフや槍先など、道具の形をしたものはあまり多くありません。

ほとんどは、道具を作る際に出る剥片(はくへん)(薄く剥がされたカケラ)や砕片ですが、これらをくっつけて、元の石に近い状態に戻していくことで、石器がどのように作られたかがわかります。石器の接合は難しいですが、ピッタリとくっつくため、接合した時はとても気持ちが良いです。

ビニールを串でとめている部分が石器の出土した所 礫も接合作業を行っています。特に、焼けた礫は、バリバリに割れて出土することが多く、元の状態にするのはたいへんです。 石器も礫も1点1点、出土場所を記録していますから、接合した個体がどの辺りに散らばっていたのかを調べることで、旧石器人がどこで、どのような活動をしていたのかを推定する大きな手がかりとなります。

赤化して割れたものを元の状態に戻していきます 旧石器人は、短期間で移動を繰り返す生活をしていたため、家や墓の跡をつかむことができません。そのため、彼らがどのように活動していたのか、はっきりとはわかっていません。

地道に石器や礫の接合作業をし、少しでも彼らの行動パターンを調べることで、当時の生活を復元していかなければなりません。発掘調査報告書刊行までにはやるべきことがまだまだたくさん残されていますが、整理作業の様子を今後も折に触れて報告していきたいと思っています。

みんなに話したい「わたしの好きな文化財」(7)

~連福寺(れんぷくじ)/木造閻魔大王坐像(もくぞうえんまだいおうざぞう)(市指定文化財)~

7回目の担当は、室内です。皆さんは子どものころ「嘘をつくとえんま様に舌を抜かれるよ!」なんて叱られたことはありませんか?または、学生時代のいたずらが、先生のえんま帳に記録されていたことはありませんか?二之宮の連福寺には、えんま様が安置されています。今回はそのえんま様をご紹介します。

県内最大のえんま様!

鎌倉時代末期から室町時代に作られたものです。高さは180cmを測り、現存する閻魔(えんま)像の中では静岡県最大の大きさです。この像は、江戸時代まで国分寺にまつられていました。これは、寛永2(1790)年に寺社奉行に提出された届け出文書に、国分寺境内に閻魔堂が描かれていることからも知ることができます。その後、明治初年に十輪寺(じゅうりんじ)(上大之郷)へ移り、明治14(1881)年に連福寺(二之宮)に移されました。連福寺は平重盛(たいらのしげもり)が開いたお寺です。

写真:木造閻魔大王坐像写真:木造閻魔大王坐像

ヒノキの寄木造りで、冠にかんざしを二本さし、前面には「王」という字が表現されています。水晶が埋め込まれた目を大きく見開き、口を開いて正面からやや下をにらみ、怒りの形相をしています。

胸の前には「日」と「月」を表した札をつけ、両手を少しまげ、右手には笏(しゃく)を握り、左手は指を伸ばして膝の上に置かれます。下の衣の間からは右足の沓(くつ)がみえます。下の写真はうしろ姿です。

えんま様とは
えんま様は十王のうちの一人です。十王とは地獄の世界で死者の罪を裁判する十人の王のことをいいます。死者は冥界(めいかい)で7日ごとに7回の裁判を受け、その後に天国や地獄など行くべき世界が決まります。日本では平安時代後期からの末法思想により、十王信仰が盛んになりました。

私は7年ほど前にえんま様の説明看板の製作を担当しました。それ以来、気になる存在であるこちらのえんま様、とても恐ろしい形相(ぎょうそう)ですが、でもなぜだか優しいお顔にも見えて私は時々会いたくなります。

みなさんも、そんなえんま様に会いに連福寺にでかけてみませんか?

磐田の二宮金次郎(にのみやきんじろう)像を探して…

写真:二宮金次郎像 二宮金次郎像(旧見付学校2F)

調査した結果、市内の小・中学校には17基の像が残り、銅製、コンクリート製、陶器製の3種類がありました。このうち、戦争中の金属類供出により、台座だけとなり、戦後新たに作られたものがコンクリート製の像です。銘文(めいぶん)から市内で最も早く作られた像は、昭和8年2月建立の竜洋西小学校(旧・掛塚町立掛塚尋常(かけつかじんじょう)小学校)のものとわかりました。

金次郎は、今から約200年前に報徳(ほうとく)(人が豊かに生きる知恵)の教えを説いた人物で、勤労・勤勉の象徴とされています。

二宮金次郎が像となったのは明治37(1904)年以降、国定教科書に修身の象徴として取り上げられるようになったのが契機といいます。全国では、大正13(1924)年、愛知県前芝村立前芝高等尋常小学校(現豊橋市立前芝小学校)に建てられたものが一番古い像です。旧見付学校では市内の二宮金次郎像を写真で紹介しています。ぜひ、ご覧ください。

コラム 栗田家の宝 竹内直文

去る11月5日に見付・栗田家の土蔵5棟と煙草(たばこ)の包装紙の版木など300点あまりが市に寄贈され、感謝状の贈呈式が行われました。私は別の行事があって残念ながら出席できませんでしたが、それでもこの事業にずっと携わってきた者として、一つの区切りができたかな、と少しほっとした気持ちになりました。

写真:煙草の包装紙 煙草葉の生産は明治時代の磐田を代表する産業でした。また見付を中心として煙草製造業としても発展しました。

これがのちに専売公社が見付に置かれた基礎となっています。私は16年度に栗田家土蔵群の現況調査が事業化されたとき、昔の煙草の包装紙があることや、それを版木で刷っていたこと、煙草の生産も包装紙の技術も、磐田市が日本の近代産業の一翼を担っていたことを初めて知り、驚きました。

今後、寄贈いただいた資料を磐田市の宝として、市民の皆様にもご覧いただく機会を作りたいと考えております。

編集後記

早いもので、今年も残すところわずかとなりました。一年間ご愛読いただき、ありがとうございました。来年も読み応えのある紙面にしていきたいと思っておりますので、引き続きご愛読ください。(や)

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