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磐田文化財だより 第60号

調査速報 匂坂中下4遺跡

平成21年7月から12月にかけて、市内匂坂中にある「匂坂中下4遺跡」の発掘調査を行いました。その成果について今回お知らせします。

写真:匂坂中下4遺跡遠景

匂坂中下4遺跡遠景(南から)

弥生時代の発見

写真:竪穴住居跡 竪穴住居跡
平面の形が小判形をしている大型の遺構です。
黒い土の部分が遺構です。


竪穴住居跡の1軒は、床(住んでいた人の生活面)が2面あったことから、建て替えられていたことがわかりました。建物跡は、柱を地面に掘った穴に直接立てる、掘立柱建物でした。

倉庫のような建物と思われます。溝の中で、調査区の西端で見つかったものは規模が大きく、集落の周囲に掘られた溝である可能性があります。

  • 写真:建物跡 建物跡
    ほぼ同じ大きさの柱穴が一列に並んでいます。
  • 写真:溝状遺構 溝状遺構
    調査区の西端で見つかった大型の溝です。

旧石器時代の発見

弥生時代のムラの下をさらに掘ると、旧石器時代(およそ20,000年前)の遺跡が見つかりました。見つかったものには、複数の石が集まった礫群(れきぐん)、大きめの石が単独で置かれた配石、さまざまな種類の石器があります。

礫群の石は、多くが割れ、赤く変色しています。このことは、石が焼かれたことを意味し、バーベキューや石蒸し料理などの調理施設、調理の場として使われたと考えられています。

  • 写真:礫群 礫群
    今回の調査では3基見つかりました。
  • 写真:配石 配石
    目印として使われたものでしょうか。

みんなに話したい「わたしの好きな文化財」(22)

~池主神社・松岡萬~

今月は、山中が担当します。今回は、大原・池主神社の祭神として祀られている「松岡萬」のエピソードについて紹介します。

池主神社とは?

写真:松岡萬顕彰碑(池主神社境内) 松岡萬顕彰碑(池主神社境内)

池主神社は、明治初年に静岡藩水利路程係として塩田開発のために福田に移住した松岡萬が、大池の水利権をめぐる問題を公平に解決した功績をたたえ、建立された神社です。

地元では現在でも「松岡様」、「松岡霊社」と呼ばれ、毎年祭礼が行われています。

剣の達人松岡萬!!

写真:松岡萬のレリーフ 松岡萬のレリーフ

松岡萬は剣の達人で、将軍・徳川慶喜の警護役であった精鋭隊の隊長格を務めた人物です。 また、明治維新の功労者・山岡鉄舟とは親友で、その他にも侠客・清水次郎長などとも交流があったようです。

知られざるエピソード

幕末~明治時代の動乱期を生きた松岡には地元に伝わる様々なエピソードがあります。

  1. 新撰組との関わり
    松岡は清河八郎や山岡鉄舟らとともに、新撰組の前身となった浪士組の結成に携わりました。剣の腕を見込まれ浪士組取締役に選ばれ、最終的に近藤勇ら新撰組メンバーとは袂を分かつことになりますが、彼らと行動を共にしていました。
  2. 清水次郎長との交友
    清水次郎長の養子・天田五郎の記した清水次郎長の一代記「東海遊侠伝」によると、松岡は侠客として時に乱暴を働く次郎長を諌めるため、次郎長を山岡鉄舟に引き合わせています。 その後も親交は続いていたようで、山岡鉄舟が死去した後、静岡にある鉄舟の土地の処分について、松岡から次郎長に依頼がされています。

このように、地域には様々な歴史があります。皆さんの周りにも多くの歴史が埋もれているかと思います。気になったこと、不思議に思うことを掘り起こしてみるのはいかがでしょうか。

「戦国大名・今川氏と磐田」展を開催中!! 先月26日(金)まで

写真:来場者に「武将家紋しおり」進呈歴史文書館で開催していた『戦国時代の磐田』展の名称を、新たに『戦国大名・今川氏と磐田』展として、「天平のまち」磐田市民ギャラリー展示室3Fにて開催します。歴史文書館で好評だった同展示をここに再展示します。

遠くて見に行けなかった、機会を逃してしまった、また見たいという方は「天平のまち」へ、いざ出陣!!戦国大名・今川氏と磐田の関わり、磐田ゆかりの武将・匂坂氏の発祥などがわかるのではないでしょうか。

開催場所:天平のまち3F 市民ギャラリー第1・2展示室
開催期間:平成22年3月3日(水)~3月28日(日)
開催時間:9時00分~19時30分まで
入場無料:休館日月曜日

コラム子どもの遊び、「めんこ」って何? 田村敦

写真:旧見付学校で展示中の「パンコウ」 旧見付学校で展示中の「パンコウ」

今の子どもに「めんこ」といってもわからないでしょう。私の子どものころは「めんこ」のことを「パンコウ」と呼んでいました。全国的にも例えば津軽では『ビダ』、名古屋では『ショーヤ』、鳥取では『ゲンジイ』、大分では『パッチン』、沖縄では『パッチー』などと呼ばれ、大きさはカード型や円形が一般的ですが直径20センチぐらいの円形のものもありました。

インターネット上のフリー百科事典「ウィキペディア」によると、語源は『小さな面』つまり面子の意味であるとあります。また、「かつては泥製や鉛製の面子も存在した。泥面子は江戸享保年間に遡り、粘土を抜型により型取りし乾燥させ素焼きにした。

明治に入ると鉛面子が流行したが、鉛中毒事件が起き、1900年に鉛の玩具使用が規制されると、発売禁止と回収となり姿を消した。以降、紙製の紙面子が登場しこれが主流となった。紙面子の登場は鉛禁止令の他にボール紙の生産が増大したことが大きな理由である。」とありますが、旧見付学校にあるものは厚手の紙製です。

私の子どもの頃は、新しい面子は駄菓子屋で買いましたが、絵柄は川上哲治などの野球選手や市川歌右衛門などの俳優で、新しいパンコウは嬉しかったものです。それを友達と取りっこをする遊びにはわくわくする楽しさがありました。

編集後記

現在、旧赤松家では「赤松男爵家旧蔵品展」が開催されています。赤松家から寄贈していただいた、金杯や写真など未公開のものを中心に展示しています。5月9日までの展示となります。是非、お出かけ下さい。(や)

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