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磐田文化財だより 第61号

歴史文書館 企画展

公文書にみる戦争と磐田
徴兵資料からみた十五年戦争

徴兵書類 全国に7例のみの徴兵書類を初公開します!!

「十五年戦争」というのは、昭和6年の満州事変開戦から日中戦争、昭和20年の太平洋戦争終結までの15年間の関連する戦争をこう呼んでいます。「太平洋戦争」は戦後の用語で、戦時中は「大東亜戦争」と呼んでいました。

「公文書にみる戦争と磐田」~徴兵資料からみた十五年戦争~

期間:平成22年4月5日(月)~平成22年9月30日(木)
時間:9時~17時(ただし、入館は16時30分)、土・日曜・祝祭日は休館
場所:磐田市歴史文書館磐田市岡729-1 磐田市竜洋支所2階
入場:無料 お問合せ:0538-66-9112

貴重な資料展示します

本年は、日本がアメリカ・イギリスなどの連合国と戦った太平洋戦争終結から65年を迎え、4人に3人は戦後生まれと言われている今日、戦争の記憶は次第に薄れつつあります。 歴史文書館では、戦時中の公文書を見ていただくことで、市民のみなさんに戦争を後世に語り継いでいただけたらと思い、本展示会を企画しました。

今回の企画展では、磐田市が所蔵している全国で7例しかない「徴兵書類」を初公開します。徴兵書類については昨年8月、ドラマ『最後の赤紙配達人』がテレビ放映され、話題になったことをご記憶の方もあろうかと思います。歴史文書館には当時の敷地村役場の資料が残っており、貴重な資料の一つとなっています。

なぜ残されたのか?

昭和20年8月18日付けで「機密書類ノ焼却ノ件」という国の通達があり、軍事関係の書類は全て焼却せよとの命令のもと、国・県・市町村は書類の焼却を行いました。この命令は、軍事裁判の際に不利になることをおそれたためだったようです。

残された書類は、事務に携わった兵事係職員や首長が、戦地へ向かった兵士(村民)たちの証しが無くなることを惜しみ残したものですが、当時の村長はじめ相当な覚悟が必要だったことでしょう。終戦当時、市町村の数は10,820ありましたから、そのうちの7例ということになり大変貴重な資料といえます。

徴兵書類とは?

(1)男子は兵役法により満20歳になると、その家の戸主(世帯主)の届出に基づき、兵事係職員が徴兵名簿を作成します。 (2)この後、徴兵検査(身体検査)を受け、甲・乙・丙種などに分類されます。 (3)このうち、成績の良い甲種から戦地へ行く資格を得ることとなり、軍から通知が来た者から戦地へ赴くこととなるのです。これが「赤紙」という召集令状です。本企画展では、これら一括書類を公開します(個人情報に関わる部分は非公開)。

不時着した降伏軍使機「海軍一式陸上攻撃機」の尾翼の一部を展示します

昭和20年(1945)8月19日、河辺虎四郎(かわべとらしろう)陸軍中将ほか全権大使らは、フィリピンのマニラで降伏条件の協議を行うため、日本海軍一式陸上攻撃機(以下、一式陸攻)に乗り、千葉県木更津から沖縄の伊江島へ向かいました。

この一式陸攻は、アメリカ軍の指示で白く塗装され、翼に緑十字が描かれていましたが、そのうちの一機が、協議終了後の帰り道に燃料切れとなり鮫島海岸へ胴体着陸しました。

写真:一式陸攻の尾翼の一部 一式陸攻の尾翼の一部

さいわい乗っていた一行は無事でしたが、不時着機はそのまま海岸に残され、主要な部品は持ち去られるなどしてほとんどなくなってしまいました。

太平洋戦争の終結後61年目の平成18年6月に鮫島海岸でこの機体の一部が発見されました。今回の企画展では、当時の様子を伝える貴重な資料の一つとして展示します。

みんなに話したい「わたしの好きな文化財」(23)

~赤池ケ谷(あかちがや)1号墳~

今回、谷口が紹介するのは、10年あまり前に発掘調査した三ケ野の赤池ヶ谷1号墳です。現在は残っていませんが、今まで調査した古墳のなかで残存状況がいちばん良かったので、特に印象深い古墳です。

赤池ヶ谷古墳群とは?

写真:赤池ケ谷1号墳 赤池ケ谷1号墳
直径約15mの円墳です
(中央右よりの石のまとまりが石室)

三ケ野にある10基からなる古墳時代後期(今から約1500年前)の古墳群です。中でも1号墳は、旧東海道から高さ3mの古墳の高まりと石室(石を組んで作った埋葬のための部屋)が見えていて、ひときわ目立っていました。平成10年に発掘調査を行いました。

その後、土地区画整理に伴って周辺が大規模に調査され、赤池ヶ谷古墳群は二子塚古墳群と合わせて再編され、赤池ヶ谷1号墳は、現在二子塚34号墳と改称されています。

古墳の石室があらわに!!

写真:石室の天井に使われた巨大な岩 巨大な岩は石室の天井に使われたものです

調査前から石室が良く残っていることがわかっていましたので、期待しながら掘り進めました。すると、高さ2m余りの石を積み上げて作られた壁が出てきました。大人の頭より大きい石が10段あまり積まれていました。

それと同時に天井に使われた巨大な岩も崩れた状態で見つかりました。人手では到底持ち上げられない重さでしたので、クレーンを使って取り除きました。

しましま模様の盛り土

写真:黒と黄色のしま模様 黒と黄色のしま模様がきれいに重なっています

3m近く残っていた古墳の高まりは全て人力で積み上げられた盛土でした。土層断面を観察するために、古墳を半分に切ったところ、きれいなしま模様が見えました。しまは積み上げたときの土の単位で、重なり方からその工程がわかります。

古代人への思い

古墳時代の人びとが、現場監督のもとで働く姿が目に浮かびます。機械のない時代に、どうやって巨大岩を運んだのでしょうか?古代人の知恵、工夫、苦労が推察できます。

小さな博物館(4~6月)「赤松男爵家旧蔵品」

市役所1F市民ホールの「小さな博物館」の展示品が4月から変わります。
旧赤松家記念館では、これまで赤松家からご寄贈いただいた資料を展示しています。寄贈品には、徳川家ゆかりのものや勝海舟や榎本武揚など明治維新に活躍した人物に関連する資料、赤松範一収集品などがあり、赤松家と明治・大正期の政財界人との交流の様子を知ることができる貴重な資料です。

今回、小さな博物館ではその一部、刀剣など軍人赤松則良の所蔵品や赤松範一と安田財閥の安田善次郎に関連する資料を展示します。

赤松則良:
江戸時代末、長崎の海軍伝習所(海軍士官の養成所)で学び、勝海舟や福沢諭吉らとともに咸臨丸でアメリカに渡りました。その後、オランダ留学を経て、明治政府に出仕し、造船技術者として活躍、海軍中将・男爵まで進みました。

赤松範一:
則良の長男として生まれ、東京製綱や浦賀船渠などの役員を歴任するなど実業界で活躍しました。また、民俗学にも造詣が深く文化人としての顔を持ち合わせるなど、多方面に活躍する人物でした。

今後の調査報告にご期待ください。

コラム 「きっかけ」について 古山勝久

去年の4月から、旧赤松家記念館に勤務しております。記念館には明治時代に造られた門、塀等の指定文化財の建物、また和風庭園にはさまざまな樹木等があります。

写真:初夏の庭園赤松家 初夏の庭園赤松家より

庭園内では、早春の梅、春の桜やモクレン、梅雨には紫陽花、秋にはドウダンツツジと四季をかもし出します。今まで季節の移り変わりは、肌で感じる温度差程度でしか捉えていなかったのですが、記念館にお世話になった「きっかけ」により四季それぞれの趣を感じるようになりました。
また明治時代の建造物に触れ、歴史に興味を持つ「きっかけ」ともなりました。

去年の夏、滋賀県へ旅行に行き彦根城へ立ち寄りました。今までは何気なく見学しておりましたので、時が経過するとどんな展示品があったのか忘れてしまいますが、今回は彦根城主である井伊家の概略等を事前に仕入れて見学、数々の展示品も興味深く見学することができました。これからも「きっかけ」を大事にし、人生を楽しみたく思います。

編集後記

来月号から文化財だよりの担当が替わります。2年間ありがとうございました。
来月号からは、また新しい年度の事業のお知らせ満載でお送りしたいと思います。楽しみにしていてください(や)

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