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磐田文化財だより 第68号

中原A古墳群発掘調査速報!!

今年の5月から10月にかけて、向陽中学校の約250m北にある中原A古墳群の発掘調査を行いました。古墳とは、土などを盛り上げて造ったお墓のことです。この古墳群は、古墳時代の終わり頃(約1300年前)に造られたお墓が10基ほど集まったもので、平成8・9年に調査した1基からは、銅の表面を銀でコーティングしたイヤリングが2個出土しています。

台地の縁に築かれた集団墓地

中原A古墳群は磐田原台地の東縁(向笠竹之内地内)に位置し、約700m東側には国指定史跡・新豊院山古墳群があります。新豊院山古墳群と時期は異なりますが、その付近には古墳時代の中頃から終わりにかけての集団墓地が築かれており、この古墳群もその中の1つです。

写真:磐田原台地東縁磐田原台地東縁(西方向から)
赤で囲んだ部分が中原A古墳群(調査地点)

密集した古墳

写真:地震の被害状況を記した「地震災潰(つぶれ)家書上帳」(下大之郷自治会所蔵文書)古墳のかたち(南東から)
赤く囲った部分が周溝

今回の調査では、600m2の調査区内で、茶畑の耕作土の下から7基の古墳が見つかりました。いずれも墳丘は失われていましたが、埋葬施設(遺体をおさめるところ)の基礎や、墳丘をとり囲んでいた溝(周溝)は残っていました。周溝を含めた古墳の大きさはどれも10m未満と小型で、円形をしています。調査区の南側では、別々の古墳の周溝が重なるところがあるほど、狭い範囲にたくさんの古墳が築かれていました。

古墳の内部

写真:東南海地震の震災被害報告書(旧向笠村、旧岩田村役場文書)入口からみた石室のようす
赤く囲った部分が入口を閉鎖した石

埋葬施設は石で築かれた部屋(石室)で、子供の頭くらいの大きさの石で壁はつくられ、床にも小さな石が敷かれていました。また、石室の入口は石で塞がれており、死者はこの閉鎖された空間の中に葬られました。石室内から副葬品は見つかりませんでしたが、石室入口のすぐ外で土器が数点ほぼ完全な形で見つかっています。お供えに使われたのでしょう。

葬られた人びと

写真:歴史文書館へのご案内周溝から見つかった土器

磐田原台地の東縁では、古墳時代の後半にたくさんの古墳が築かれました。当時の人々が暮らしていた村は、台地を下った太田川流域の平野にあったようです。彼らは、高所にある墓地から先祖に見守られていることを感じながら、生活していたことでしょう。
この後、古墳を造る風習は衰退していくようになります。「死」に対する観念が、それまでと大きく変わっていったものと思われます。

みんなに話したい「わたしの好きな文化財」(30)

磐田原台地

浜松方面から磐田バイパスに車を走らせると、眼前には南北に切り立つ磐田原台地の大きな崖(がけ)が飛び込んできます。私、室内は、子どものころから、天竜川を渡ってから見える、このインパクトのある風景が何故か好きでした。今回は、厳密に言えば「文化財」ではありませんが、磐田の文化財とは切っても切り離せない地形である磐田原台地についてご紹介します。

対照的な西縁と東縁
写真:対照的な西縁と東縁

磐田原台地は今から約13万年前に、天竜川が作った平野面が台地表面として残ったものです。この写真は、南上空から北方向に向けて撮影した磐田原台地です。南北11km、南端では東西5kmを測り、神増原(標高130m)付近から南に傾斜し、新幹線(標高2.5m)付近で沖積平野となります。台地西縁は、天竜川によって激しく削られたため、南北に直線的な崖となっています。一方東縁は、太田川や小河川による浸食であったため、西縁ほど激しく削られず、複雑に丘陵と谷が入り組んだ地形になっています。桶ケ谷沼や鶴ケ池は、この入り組んだ谷に残った沼地です。

磐田原台地は埋蔵文化財の宝庫

写真:城之崎城が築城された環境南から見る磐田原台地東縁の風景
(古墳がたくさん築かれています)

台地には700箇所以上の遺跡があります。これらの遺跡から、磐田には約2万年前の旧石器時代から人々が住み始め、縄文・弥生時代にも台地上にムラを作り、見晴らしのよい縁辺部には多くの古墳を築きました。奈良時代には国府や国分寺が置かれ、それ以降江戸時代に至るまで遠江国の中心地として人々が活動したことがわかります。

今回は磐田原台地についてご紹介しましたが、磐田市は山・川・海に囲まれた変化のある地形をもつまちです。身近にある地形をゆっくり眺めてみませんか、何かおもしろい発見があるかもしれませんよ。

市内の石造物を訪ねて(下)墓参のかたわら

近頃、歴史上の有名人や著名人のお墓をお参りする「墓まいラー」が増えていると聞きます。今回は、みなさんに墓参の傍ら、チラリと墓石を見るだけで「これは古いなぁ!」と見分ける方法をお教えします。

舟形石仏

①舟形石仏

屋根形墓石

②屋根形墓石

三角頭形墓石

③三角頭形墓石

角錐形墓石

④角錐形墓石

写真:丸台頭墓石⑤丸台頭墓石

江戸時代が始まった頃、今のような「先祖代々○○家の墓」といった墓石はなく、①舟形の石仏(舟を真上から見た形)に戒名を刻む形のものでした。
江戸時代前半には、②屋根形(屋根をつける形)、③三角頭(頂部が三角形)といった形のものが現れます。この形は当初、身分の高い人達(武士、庄屋、商家)のお墓でした。ちなみに江戸時代初期の豪商は大きな五輪塔を建てています。
江戸時代中頃から後半にかけて、④角錐形、少し遅れて⑤丸台頭形、さらに⑥櫛形の墓石が現れます。○○形とは墓石の頂部の形で分けた呼び方です。こうした流れに合わせ、庶民に家という考え方(家を継ぐ)が出てきたため、○○家の墓と家紋をつけるようになります。また、この頃になると墓石を立てることが庶民層へも広がり、現在よく目にする角柱形が登場するという変化をしました。

写真:櫛形墓石⑥櫛形墓石

市内の寺院では、墓石は古くても江戸時代初期といったところです。これはかつてお寺とお墓は同じ場所にあったのではなく、お寺と離れた共同墓地に築かれていたためと考えられています。江戸時代に始まった檀家制度(個人は必ず寺に属す)がお墓とお寺を結びつけるきっかけとなったのです。
さて、3回に渡り、お寺を中心に境内入口から墓地にみられる石造物の紹介をしてきましたが、これはまだほんの一握りの紹介にすぎません。これを機会にみなさんが市内に存在する石造物に対して興味をもっていただければ幸いです。(完)

編集後記

今月11月1日(月)から来年の1月28日(金)まで、竜洋支所内の歴史文書館2F展示室にて「歴史文書館第6回企画展~巨大地震からの警告」を開催いたします。開催期間中、多くのみなさまのご来館をお待ちいたしております。

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