磐田のみどころ

磐田市役所 ホーム > 磐田のみどころ > 文化財 > 磐田文化財だより 第84号

磐田文化財だより 第84号

(平成24年3月1日発行)

速報! 御殿・二之宮遺跡の発掘調査 第2弾

写真:御殿・二之宮遺跡を東南より望む

今回は「文化財だより72号」でご紹介した、御殿・二之宮遺跡の発掘調査速報の第2弾をお届けします!

第1弾のおさらい

御殿・二之宮遺跡とは?
JR磐田駅の南側一帯に広がる弥生時代~江戸時代までの遺跡で、市内の遺跡としては最大範囲(約4万m2)を誇ります。
どこをなぜ発掘調査しているの?
道路改良工事に先立ち、上の写真の「調査箇所①」の部分の調査を平成22年度事業として行いました。
どんなものが見つかったの?
約2000年前の弥生時代の人たちや、約1300年前の奈良時代の人たちが残した土器・石器・木製品などが大量に出土しました。

調査速報第2弾

平成23年度の調査箇所(前ページ写真の「調査箇所②」)は、道路の下。「え!道路の下にも遺跡が残っているの?」と疑問に思う方もいらっしゃると思いますが、道路の下1m、深いところでは2m下に遺跡がしっかり残っていました。交通量の多い道路を掘るため、通行に支障をきたさないよう、調査区域を分割したり仮設道路を設定してから発掘調査を実施しました。

写真:調査箇所

Aの写真の調査区では道路下80cm、150m東に離れたBの調査区では道路下2mで遺跡が見つかっています。弥生時代の人々の生活面が、現在の地表面よりずい分低かったということが発掘調査によってわかります。

写真:調査箇所

日々の調査で、弥生時代から鎌倉時代にいたるまでのさまざまな時代の土器がコンテナ73箱分出土しました。

これまでにわかったこと
磐田原台地の南端部を東西380mにわたり調査を行い、弥生時代~古墳時代の柱穴、貯蔵穴、溝の跡が各所で見つかりました。また、そこから大量の土器が出土することや、過去の周辺調査で米作りの道具が出土していることから、弥生時代以降、二之宮地域には米作りをする大規模なムラがあったことが裏付けられました。
今後
これまでの調査成果の整理作業をしながら、二之宮での発掘調査は来年度も継続して行います。調査成果は調査速報第3弾として文化財だよりでご紹介する予定です。

ふるさと磐田の指定文化財(8)「西光寺表門」と「旧中泉御殿裏門」

今回は、徳川家康が造営した中泉御殿から移築したと伝えられる2つの門を紹介します。

(いずれも『御殿・二之宮遺跡第84次発掘調査報告書』から)

写真:中泉御殿(江戸時代)の建物配置推定図中泉御殿(江戸時代)の建物配置推定図
写真:中泉御殿の門と塀(白線)の跡中泉御殿の門と塀(白線)の跡

中泉御殿とは?
中泉御殿は、徳川家康が天正14年(1586)ごろに中泉地内(現在の御殿)に造営させた宿泊・休憩施設です。江戸時代の文献には将軍の宿泊や鷹狩りで使われたことが記されています。その敷地は約1万坪(33,000m2)あり、周囲に土塁や堀がある「城」のような構造となっていました。幕藩体制が安定した3代将軍・家光の時の寛文10年(1670)に廃止され、その際に表門が西光寺に、裏門が西願寺に移築されたと伝えられています。
平成15~16年度に行なった発掘調査では、中泉御殿の塀や門の跡が見つかっています。この門の跡は、礎石を使わず柱を地面に埋め込む掘立柱を用いた薬医門でした。また、西光寺と西願寺に移築された門とは柱の大きさが異なっていることから、それより古い時期に造られたものではないかと考えられます。

薬医門とは?
前にある太い柱(本柱)と後方の細い柱(控柱)で屋根を支える構造の門です。主に城や寺に設けられ、名前は「矢を食う門」に由来するとする説があります。

※薬医門は、旧見付宿脇本陣大三河屋門(見付)、連覚寺山門(竜洋中島)、福王寺総門(城之崎)、鎌田神明宮神門(鎌田)等でみられます。

写真:西光寺表門(見付・河原町)西光寺表門(見付・河原町)

西光寺表門 S57 旧磐田市・H17年新磐田市指定文化財
江戸時代初め(17世紀中ごろ)に造られたと考えられる礎石建ちの薬医門で、現在は本柱の両側に細い柱がある3間1戸(4本の柱で入口は中央に1つ)ですが、当初は1間(本柱2本のみ)と考えられます。主柱の間隔は3.45mあり、屋根を支える部分は重厚な造りで、中泉御殿の表門にふさわしい門といえます。瓦は後世に葺替えられています。

写真:旧中泉御殿裏門(西願寺、中泉・西町)旧中泉御殿裏門(西願寺、中泉・西町)

旧中泉御殿裏門 S41 旧磐田市・H17年新磐田市指定文化財
礎石建ちで本瓦葺きの薬医門です。主柱の間隔は2.9mで、本柱の太さは40cm以上あります。本柱や本柱の上に渡る太い冠木(かぶき)は、江戸時代初め(17世紀代)のものと考えられ、中泉御殿の門にふさわしい風格があります。部材の一部は17世紀後期に、控柱や扉は後世に取り換えられています。

磐田発、身近な地元の歴史をお届けします!
いわた歴史の風景 天竜川木橋物語 「天竜橋」

写真:発見された橋脚発見された橋脚

9月21日午後2時に静岡県浜松市付近に上陸した台風「ロウキー」(15号)は、東日本を縦断、各地に冠水被害や倒木、土砂崩れなどの爪痕を残しました。この台風により、天竜川河川敷で、明治時代に天竜川に架けられていた天竜橋の橋脚が発見されました。 台風の出水により、河川敷の土砂が洗われ、直径50cmの杭と、それを囲む板柵(木枠)が露出しました。板柵は東西3.2m×南北4.1mで、その内側に直径50cmの杭が2本設置されています。周辺からは、水流から橋脚を守るためのものとも思われる直径20~30cm程度の杭が合計28本見つかりました。 天竜橋は明治7年に架けられた船橋を明治11年に木橋としたもので、幅14尺(4.2m)長さ646間(1,163m)で自動車も渡ることができました。昭和8年に天竜川橋(旧国道橋)が架けられるまで、国道橋として磐田(磐田市源平新田地内))と浜松(浜松市東区中ノ町)を結ぶ重要な橋でした。 発見された橋の一部は木橋としては太く、板柵により保護されていることから、木橋に先行して架けられた船橋に関係する可能性もあります。また、天竜橋の北側でも明治16年に架橋された「池田橋」の橋脚も見つかりました。これらの橋脚は、遠州地方の交通史や近代土木遺産を考える上でも重要な発見と言えます。

写真:天竜橋と池田橋の位置(明治時代)

天竜橋と池田橋の位置(明治時代)

写真:明治時代の天竜橋

明治時代の天竜橋

編集後記

真冬の寒さもピークが過ぎ、季節は少しずつ春めいてきました。ちぢこまっていた道端の草花もそろそろ顔をだします。小さな春を探しに出掛けてみませんか。

ページの先頭へ

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページの情報は役に立ちましたか?

このページの構成について、ご意見・ご要望などがありましたら下記に入力してください。
入力内容への個別の回答はできかねますのでご了承ください。

このアンケートフォームは、磐田市ホームページに関するご意見をお聞かせいただくものです。
市政に対するご意見、お問い合わせなどはこちらへお寄せください。ご意見・お問い合わせ