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磐田文化財だより 第108号

特別史跡 遠江国分寺跡(とおとうみこくぶんじあと) 平成25年度発掘調査報告
遠江国分寺の東西規模を推定!

調査箇所

磐田市教育委員会では、史跡の再整備に必要な資料を得るために平成18年度から発掘調査を行っています。平成25年度は8~11月に、国分寺を囲んでいた築地塀(ついじべい)の跡のうち、東側部分について調べました。築地塀は土を積み上げて壁を作り、屋根に瓦をのせた塀で、格式の高い寺や役所等に使われます。
発掘した結果、土を積んだ跡は確認できませんでしたが、地下数cmの深さで、東西の幅約3mに渡って黄褐色の地山が現れ、南北方向につながっていました。この地山は、上にあった築地塀の積み土で保護されたと考えられること、これまでの発掘調査で、塀の西側の溝(屋根からの雨水が落ちる溝)が見つかっていること、昭和30年代の東側の道路工事で塀の東側の溝内にあったと考えられる多量の瓦が出土していることから、ここが築地塀の跡と想定することができました。
この想定から、遠江国分寺の東西規模は塀と塀の間が168m前後、塀の外側の溝を含めると180m弱と考えることができます。南北はこれまでの調査で、外側の溝を含めて約253mと考えられています。


発掘したようす(北西から)


土を固(かた)く叩(たた)きしめながら造る築地塀(ついじべい)の工事の想像図(奈良文化財研究所「古代の官衙遺跡Ⅰ遺構編」掲載の図を改変)

遠江国分寺跡は、819年(弘仁(こうにん)10年)に火災にあったことが平安時代の記録に書かれています。これまでの発掘調査で、塔や金堂(本尊があった建物)・回廊が焼けたこと、これらの建物はその後同じ場所に再建されたようすは見られないことがわかりました。
また、古代の国分寺は税で運営されていましたが、国分寺としてはその他の建物などを使って平安時代中ごろまで続いたようです。


江戸時代末~明治時代初めごろの絵図
コンピュータ・グラフィックスによる遠江国分寺の推定復元画(丸で囲んだ部分が今回調査を行ったところ)

その後も「国分寺」と称する寺が存在したことは記録などにあり、江戸時代ごろの絵図も残されています。
今回の発掘調査では、江戸時代以降の礎石を使った建物跡や鍛冶(かじ)関連遺構(鉄の道具を作る施設の跡)などが見つかっています。
このほかに、太平洋戦争中の防空壕の跡も見つかっています。南北の長さ4.8m、東西の幅1.2m、天井部からの深さは1.7mほどあります。当時を知る方によると、すべて人力で掘削し、天井には板をかけて土を盛ったとのことです。今から70年ほど前に使われたものですが、当時のようすを記録するため、発掘調査でこうした遺構が見つかった場合は図や写真をとることがあります。


ふるさと磐田の指定・登録文化財(28)
旧掛塚郵便局局舎・蔵靏谷(つるたに)家住宅主屋(しゅおく)

国の登録有形文化財(建造物)とは、50年を経過した歴史的建造物のうち、一定の価値があるものを国の文化審議会の審議・答申を経て、文化財登録原簿に登録したものです。
今回は、平成24年度に登録された掛塚にある3棟の建造物を紹介いたします。

旧掛塚郵便局(長谷川家住宅)局舎

旧掛塚郵便局(長谷川家住宅)局舎

昭和10年に建築された木造2階建て一部平屋建てで、元の郵便局舎兼住宅です。長谷川家は元廻船問屋で、富裕であったことから明治政府からの郵便局開設依頼に応じたといわれています。旧局舎は木造ですが、モルタル塗で石造風に仕上げられている他、洋風の軒飾りや漆喰(しっくい)を使用した郵便マークをデザインしたレリーフ等、随所に和洋折衷のデザインが施されています。当時東京を中心に発展した、外観のみを洋風とした建築様式を地方で取り入れたもので、掛塚の近代化を示す貴重な建造物であるとともに、保存状態もよく昭和初期の準公共建造物の貴重な事例です。


旧掛塚郵便局(長谷川家住宅)蔵

旧掛塚郵便局(長谷川家住宅)蔵

掛塚地区は、江戸から明治時代中期まで廻船業(港から港へ貨物等を運ぶ業務)が盛んで、たいへん栄えていました。この蔵は、掛塚でも有数の廻船問屋の蔵であったものを長谷川家が購入したもので、明治中期以前の建築とされます。木造2階建てで、外壁は伊豆石(伊豆半島で産する石)を積み上げており、2階の窓には西洋風装飾の付いた庇(ひさし)が付いています。伊豆石は江戸~明治期の掛塚において、天竜川上流域で伐採された木材の運搬船が江戸へ行った帰路に、空船になった船を安定させるために伊豆半島で伊豆石を積んで帰港していた事から、掛塚地内の蔵には多く使用されており、この蔵は掛塚地区の歴史を語る建造物といえます。


靏谷家住宅主屋

靏谷家住宅主屋

明治17年頃に建築された木造2階建てで、通りに面して立つ町屋形式(※1)の店舗兼用住宅です。靏谷家は元造り酒屋で、現在も「つるや酒店」して営業しており、1階に格子の付いた出窓が残るなど、明治前期の商家のようすがわかる建造物です。
(※1 日本の伝統的な住宅形式のひとつで、都会型住宅の形式。)
皆さんも、掛塚を訪れた際は、まちを散策して、往時にタイムスリップしてみてはいかがでしょうか。


文書館だより(3)
地域の思い刻んだ石碑

福田図書館敷地内、建物のすぐ南西に、「福田小学校寄附單(たん)」と書かれた高さ1メートルほどの苔むした石碑が建っています。ここは元福田小学校のあったところで、昭和9年、校舎新築にあたり、それまでの寄付者名を刻んだ石碑が建立されました。当時の人々がいかに教育を大切に思っていたのかがわかる気がします。
「福田小学校寄附單」の碑 福田地区にはいろんな石碑が残っていますが、中には次のような碑文もありました。昭和32年に記されたその文章には、「地方教育の興隆と平和の保全、福祉の増進を期する」とあります。今の時代にも通じることですね。
こういった資料も、福田町史編さん事業を行う中で、皆様から情報提供をいただき、収集しています。
この3月には、「福田町史資料編VI」を刊行します。福田地域の皆様からご協力いただいた資料を掲載させていただきましたのでご覧ください。
(連絡先)磐田市歴史文書館 電話0538-66-9112

コラム 「遠江の要、福田湊から福田港へ」 歴史文書館 五島康司

磐田バイパスや国道標示案内の「福田港」の文字が、磐田市の遠州灘をアピールしています。シラス漁が盛んな福田港は第4種漁港・避難港として整備され、地元漁業関係者有志の地魚処「漁師のどんぶり屋」(金土日の昼に営業)が賑わいを見せています。
江戸時代に廻船業で栄えた福田湊。見付宿・中泉代官所とは仿僧川と今之浦川で、袋井宿・森・掛川藩とは太田川と逆川で、横須賀藩とは前川でつながる福田湊は遠江の水運の要(かなめ)であり、物流の拠点でした。通い徳利(とっくり)の「福田湊」の力強い文字が当時の繁栄を物語っています。
明治を迎えると、遠江の近代化を支える拠点としてさらに栄えた福田港。回船(かいせん)業は、明治14年には大ノ浦丸、盛航丸の2隻の蒸気船を有する「環洋(かんよう)株式会社」へと発展し、新茶・米・粉蒟蒻(こんにゃく)などが福田港から送り出されています。送られてきた品々は、書籍・石油・丸釘・キカイ・傘・洋糸(毛糸)・函館昆布・梨・鮭・鰻を シラスの水揚げ、環洋社の印章、通い徳利、環洋社の送り状 入れて送った空篭(かご)など種々雑多でした。これらの品々は、遠江の新しい時代を活気付けたことでしょう。


編集後記

小学3年生が昔の道具を勉強しているため、旧見付学校と埋蔵文化財センターに見学に訪れています。この100年間の道具の変化にびっくり!とても便利になった今。その反面で昔のエコな暮らしの知恵と工夫にもびっくりのようです。最近では、湯たんぽなど、昔の道具がまた見直されているようです。

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