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磐田文化財だより 第117号

掛塚湊(かけつかみなと)の繁栄を伝える明治の屋敷
津倉(つくら)家住宅が市に寄附されました!

あらまし

津倉家外観(主屋)~南西から~

天竜川の河口に築かれた掛塚湊は、江戸時代から水運業の拠点として栄えました。津倉家は江戸屋と号して江戸時代から材木商・両替商を営み、その後廻船(かいせん)問屋として天竜川上流の木材などの運搬に従事していました。明治時代には、掛塚の中でも有数の規模を誇る豪商でした。
津倉家住宅は、掛塚湊の歴史を今に伝える建物で、磐田を代表する商人の屋敷として、たいへん貴重な文化財といえるでしょう。平成26年1月に当主が他界し、ご遺族の意向により土地建物が市に寄附されました。


物件のみどころ

主屋

津倉家外観(洋間)~南東から~
主屋内部

明治22年の建築と伝わります。
木造2階建て瓦葺きで、正面(南)側は1・2階共に伝統的仕様の格子窓(こうしまど)が見られます。
1階正面は深い庇(ひさし)が設けられ、玄関を入ると広い土間があり、店先になっていましたが、現在は西半分が和室に改修されています。木材は全体として上級品を使用しており、山住(やまずみ)神社(浜松市天竜区水窪町)の杉材を使用した座敷の天井板や、広縁(ひろえん)のナラ材の美しい模様などにその財力をうかがうことができます。座敷を仕切る襖(ふすま)には正面側に福田半香(ふくだはんこう)、背面側に平井顕斎(ひらいけんさい)の山水画が描かれ、市指定文化財となっています(※)。その他にも浜松出身の画家山下青崖(せいがい)の山水画が飾られています。

※福田半香、平井顕斎はともに幕末の画家で、崋山十哲(渡辺崋山の高弟)の一人。福田半香は見付出身。


洋間

洋間内部

竹下利夫氏(現・竹下一級建築士事務所創業者)が、浜松工業学校(現・浜松工業高等学校)の教諭で画家でもあった山内泉(やまうちいずみ)氏に相談して設計したとされます。昭和10年の建築と伝わります。
南側の庇部分を支える3本の石柱の縞(しま)模様が美しいです。内部は17.5畳の板間で、東側に模造暖炉を置き、中央に山内氏自身が設計したという応接セットが当時のまま置かれています。入口は内側が襖であるなど和洋折衷(せっちゅう)で、シノワズリ(西洋人の中華趣向)をテーマにしたと言われています。当時東京などで流行していた「洋館付住宅」(和風住宅の一部のみを洋風にし、応接間としたもの)を意識して増築したものと考えられます。


石蔵

2階建てで、元は2軒あった蔵のうちの西側の1軒が残っています。木造2階建てで外側は伊豆石張りで造られています。明治中期以前の建築です。


津倉家1階平面図

津倉家1階平面図

寄付後の整理ができていないため、一般公開は行っておりません。
公開日時が決まりましたら、お知らせいたします。

いわたのこんなお話 磐田編①

久々の身近な文化財シリーズ、今回は、磐田・向笠地区の「たたきごぼう」です。

たたきごぼうは、岩井に800年以上前から伝わるといわれている、無病息災を願う伝統行事です。鹿島神社の例祭の供物のひとつである「たたきごぼう」は、刃物を使わずに、たたいて作られます。
今年の例祭(例祭日1月15日直近の日曜日)とその前日の準備の様子を取材しました。
≪平成27年 例祭準備(たたきごぼう):1月10日(土)、例祭・・・1月11日(日)≫

前日[準備]

朝早くから、男衆はセリ採りや幟(のぼり)立て、しめ縄・竹の柄杓(ひしゃく)作りにと、女衆は神社のお供物(くもつ)づくりにと大忙しです。

ごぼう

ごぼうはどこ?
10キロのごぼうは皮をそがれ、すっかり色白になって水にさらされていました。吐(は)く息が白い厳寒の中、白い湯気がゆらゆらと揺れる大鍋にごぼうが移されると、「いい湯加減で・・・」そんなつぶやきに気持ちがほっこり。


ごぼうをたたいているようす

正午頃、ゆで上げられたごぼうは、公会堂の中に移されます。女衆が一列に並んで座り、ごぼうをまな板の上でトントンとすりこぎでたたいてつぶします。ごぼうは長くつながっているのがよいとされ、子孫繁栄(はんえい)を願い長い状態で残されます。


当日[例祭]

福袋が配られるようす
※1 神前でエショ(祭りの準備を司る者)が甘酒を箸でつまん
ではカワラケに移すことを75回やるもの。
※2 祭礼の直後、供えた神饌(しんせん)を下げて食すこと。

例祭では、神前に運ぶ供物のひとつにたたきごぼうが並びます。檜(ひのき)の葉を敷き、セリ・大根・たたきごぼうを盛り、横に七十五膳(※1)が添えられます。
神事が終わると、奉納した丸餅がまかれ、その後、小袋(福袋)にわけられた、煮豆やごぼうなどが参拝者に配られます。すべての片付けが終了すると、直会(なおらい)(※2)に移ります。ここでの食事は、檜(ひのき)の葉の上に置かれ、たたきごぼうも全員が食します。


直会の食事

福袋のお味は?
甘酢で味付けされたごぼうは、さっぱりした素朴な味わいで、身体が清まるような気がしました。今年1年の無病息災は、福を食べたお陰かな。


文書館だより

歴史文書館 所蔵文書 紹介

拾遺手鑑(しゅういてかがみ)

今年度、歴史文書館の企画展では、松岡霊社に伝えられていた『拾遺手鑑(しゅういてかがみ)』を展示しました。手鑑は、巻物などから和歌など切り取り、屏風状に折りたたむ形式の本に貼られたもので、現代風に言えば、スクラップ帳に近いものです。
『拾遺手鑑』には、96枚の式紙や短冊が貼られていますが、この中に、唯一、郷土に関係する人物として、掛塚湊から伊豆に逃れた今川氏真(いまがわうじざね)がおり、「浦船」の題で歌を詠んでいます。今川氏真は、桶狭間(おけはざま)の戦いで織田信長に敗れた今川義元(よしもと)の子です。宗誾(そうぎん)とは、氏真が和歌を詠んだ時の号で、この歌は、歌会での自詠の歌といわれています。天下を目指した今川家も義元が桶狭間で敗れ、氏真も掛塚湊から同盟軍である北条氏を頼って脱出したわけですが、そのときの失意の心境を詠んだのではないかと想像するのも面白いのではないでしょうか。


コラム 旧東海道の宿場町「見付」を散策 村松浩之

私は見付で育った。小学生だった頃(昭和40年代)の見付は、普段の生活に足りるほどの店があり、本通りを中心としてにぎわっていた。今はない駄菓子屋やパチンコ店、銭湯などもあったことを記憶している。
現在の本通りを歩いてみる。車道は広く、歩道も設置され、建物もセットバックし建て替えられ、全体的にきれいには整備されているが、以前とは全く別物であり、そこから懐かしさを感じることはできない。
だが、一旦、小路に入り込むと、目の前の景色は一変し、当時の風景の断片が目に映り込んでくる。そして、その先には、神社や寺社が今も変わらずに建っているのである。

現在の馬場町交差点、昭和40年頃の馬場町交差点(写真は中央浴場銭湯)~磐田の記録写真集より転載~

ふと、昭和の見付を想い出したくなったら、「小路巡り」がいい。それで、歩き疲れたのなら、旧見付学校と中(なか)の宮(みや)(淡海国玉(おうみくにたま)神社)や見付天神(矢奈比賣(やなひめ)神社)などに寄って、足を休めていくことをぜひお勧めする。


編集後記

先月、家の近くで開催された酉(とり)の市に行き、露店に並ぶ縁起物に一足早い年の瀬を感じてきました。今年も残すところ1ヶ月となりました。今年は充実した1年でしたでしょうか。

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