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磐田文化財だより 第120号

特別史跡 遠江国分寺跡(とおとうみこくぶんじあと) 平成26年度発掘調査報告
僧房(そうぼう)の基壇(きだん)(土台部分(どだいぶぶん))の規模が判明!

僧房(そうぼう)の基壇(きだん)(土台部分(どだいぶぶん))

磐田市教育委員会では、史跡の再整備に必要な資料を得るために平成18年度から発掘調査を行っています。平成26年度はその最終年度として、7~10月に、僧の寄宿舎(きしゅくしゃ)である僧房や、お経を学んだ講堂(こうどう)、南の入口である南大門(なんだいもん)などの跡について調べました。


僧房 基壇の規模は・・・

僧房は、平成20年度の発掘調査でその存在が初めて明らかとなり、平成21年度には基壇の東端を調査しました。今回、西端と思われる部分を発掘したところ、明瞭な版築(はんちく)(※1)が検出され、木装基壇(もくそうきだん)(※2)の縁(ふち)があった付近と考えられるところも確認できました。
この結果、基壇の規模は東西66m前後、南北13.5m前後であることがわかりました。

遠江国分寺 僧房跡の基壇の断面

僧房

僧房跡の内部の復元(讃岐国分寺跡)

「国分寺建立(こくぶんじこんりゅう)の詔(みことのり)」(741年)では、国分寺には僧を20人、国分尼寺には尼(女性の僧)を10人置くことが定められています。僧房は、一般的には東西に長い建物で、中央は通路で、両側に房(ぼう)と呼ばれる部屋がいくつかあり、そこに僧と付き人2~3人が共同生活していたようです。国分寺の僧房には、讃岐(さぬき)(香川県)のように東西88mもあるところもありますが、安芸(あき)(広島県)のように55mのところもあります。また、小子房(しょうしぼう)と呼ばれる別棟を設けたり、礎石を用いた建物ではなく、地面に直接柱を埋め込んだ掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)を僧房としている場合もあります。


塔の木装基壇のイメージ

(※1)版築(はんちく)=黒色や黄色など色や硬さ、性質が違う土を叩(たた)きしめながら交互に積む工法
(※2)木装基壇(もくそうきだん)=古代寺院の基壇は版築で土を積(つ)み、その積土(つみつち)が崩(くず)れないようにするため、装飾(そうしょく)を兼(か)ねて周囲を石や瓦などで囲むのが一般的です。しかし、遠江国分寺の塔・金堂(本尊を安置)・講堂・回廊など、主要な建物の基壇は木の板で囲んでいました。これが木装基壇と呼ばれるもので、確認された主要建物の基壇がいずれも木装基壇であることがわかっているのは、全国の古代寺院の中でも遠江国分寺と遠江国分尼寺のみです。


僧房や講堂は火災にあっていない!

遠江国分寺は、819年(弘仁(こうにん)10年)に火災にあったことが平安時代の歴史書『類聚国史(るいじゅうこくし)』に記載されています。これまでの発掘調査で、塔や金堂(こんどう)・回廊(かいろう)では焼土(しょうど)や炭化物が見つかり、これらの建物が火災にあったことや同じ場所にこれらの建物が再建された様子は見られないことがわかっています。
一方、僧房や講堂では、これまでの調査(平成20・21年度)の所見と同様、火災にあった痕跡は見られず、周辺からは平安時代中ごろの土器が出土しています。このことから、僧房や講堂は火災にあっておらず、遠江国分寺はこれらの火災にあわなかった建物を使って平安時代半ばまで存続していたことが確認できました。

金堂が最初に建てられた!

これまでに発掘した瓦の分析により、金堂が最初に、その次に塔が建てられたことがわかりました。本尊である一丈六尺(いっじょうろくしゃく)(立った仏像として高さ約4.8m)の釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)などを置く建物として、遠江では金堂が最も重視されたと考えられます。

南大門

南大門においては、今回の発掘調査で版築は検出されませんでした。

いわたのこんなお話 豊田編①

身近な文化財シリーズ、今回は豊田地区の『天竜川東岸 豊田・磐田新四国八十八か所霊場』をご紹介します。

天竜川東岸 豊田・磐田新四国八十八か所霊場

江戸末期~大正時代、遠州各地に四国八十八か所霊場が開設されました。その内の一つが磐田に今も残っています。磐田に霊場が勧請(かんじょう)(分霊を受けること)されたのは大正10年頃。中心となったのは、七蔵新田(現豊田地区東名)にあった弘法堂と高野山大師教会富岡支部でした。弘法堂境内には1番札所と88番札所が設けられました。(弘法堂廃堂後、88番札所と堂内の諸尊は袋井市油山寺へ移されています。)


一番札所・・・(左)弘法大師(右)四国八十八か所から勧請した石仏

平成13年の調査当時、1番が七蔵新田文化センターの前、2番以降は、北は匂坂上、西は天竜川、東は富士見町、南は下本郷までの範囲に所在が確認されました。豊田地区に一番多く、中泉・見付地内には寺院境内に多くみられます。
四国の霊場へは、庶民が行きたくても行けなかった時代です。病気の方やお年寄りなど、多くの人々に、喜び迎えられたことでしょう。戦前は白装束にわらじ履きの敬虔(けいけん)な巡礼者たちの姿が見られたといいます。また、四国同様、札所近くの家では茶菓子などのおもてなしで迎えたそうです。今でも花やお供えを上げてお参りされる方がいらっしゃいます。


今ある場所は?

『豊田町誌』別編Ⅱ民俗文化史付録の地図

平成13年の調査から14年を経て、既になくなってしまったものもありますが、油山寺に移されたもの以外は、おおむね元の位置にあります。興味のある方は、豊田町誌のリストや地図を参考にして、一度訪ねてみてはいかがでしょうか。
「善導寺大クス」の下(磐田駅北)


文書館だより 掛塚湊と天竜川

送り状

東海道線が開通するまでは、天竜川流域で生産された木材は、天竜川を下り、掛塚湊を経由して、東京へ運ばれていました。今回は、その当時をしのばせる掛塚の廻船問屋の文書を紹介します。
右の「送り状」は、明治19年、船明村の回漕業者(中継業者)から、掛塚の廻船問屋(海運業者)に宛てて送られたもので、杉、檜(ひのき)の角材を筏一艘(いかだいっそう)にして送ったという書状です。材木の送り主はI氏、かかった経費は一円六十七銭七厘とあり、送り状は、請求書でもありました。この文書は、鉄道開通前の明治19年から22年頃までの「送り状」・「仕切状」の中の1通で、この時期、掛塚の廻船問屋では北遠の木材を掛塚湊から東京深川の材木問屋に送っていた様子がわかります。
東京の材木問屋からは決算書としての「仕切状」が送られ、掛塚銀行(今の静岡銀行の前身のひとつ)で手形決済されていました。


コラム 旧見付学校は磐田の宝 平野 徹

3階 民具の展示風景

毎日館内を眺めたり、来館者の質問を受けたりするたびに、知りたいことがたくさん出てきて興味深い。調べるのには、便利なインターネットもあるが、地元のことは、地元の歴史家が書き残してくれた物がすばらしく参考になる。
講堂や体育館のなかった見付学校は、学芸会をどこで行っていたのだろう。二宮金次郎の石像は見付学校にあったのだろうか。見付宿に旅籠(はたご)がたくさんあったそうだがどこにあったのだろう。調べたことを市民の方々に見てもらいたいと思い、わかりやすく展示するのもまた楽しい。
(答えは見付学校の展示をご覧ください。)


東海道 見付宿の展示の様子

旧見付学校は明治の新しい時代にふさわしい教育をしようと、見付の人々が力を出し合って作った時代の先端を行く建物である。街道を行き交う全国の人々に見付の意気込みを知らせるとともに、学問の大切さを子供たちに知らせるものだったはずである。現代でも全国の人たちが来館し、近隣の子供たちが学習に訪れる。見付の地にあってこその見付学校と、展示物を今後も輝かせていきたいと思いながら、多くの来館者を期待している。


編集後記

今年度最後の文化財だよりになりました。編集には毎月ベタベタに校正の赤が入り、各執筆者との調整もなかなか苦しい思い出です。でも、未知の分野の取材は、とても勉強になり、感動でした!

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