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磐田文化財だより 第132号

旧見付学校勉強会『旧見付学校のあれこれ』 Part2

旧見付学校

見付学校は、明治8年(1875)に建てられた日本最古の木造擬(ぎ)洋風小学校校舎です。その後大正11年(1922)に小学校校舎としての役目を終え、准(じゅん)教員養成所、裁縫(さいほう)女学校、病院、郷土館などの施設として使用されました。昭和44年(1969)に国指定史跡となり、現在は教育資料館として、教育関係の資料を中心に展示しています。
「旧見付学校を知ろう」のタイトルで、5月・7月・9月の全3回で、参加者を募集し勉強会を行いました。今回は、9月の勉強会の中から、子どもたちの生活と旧見付学校の展示品についてご紹介します!
(5月・7月の内容は文化財だより第131号で紹介しています。)


子供たちの様子

明治時代になり義務教育が始まりましたが、就学率が100%になるのは明治の終わりになってからでした。子どもたちはかすりの着物を着て、学習用具を風呂敷(ふろしき)に包んで登校しました。多くの子は義務教育4年が過ぎると、働きに出たようです。昭和になると義務教育が6年になり、義務教育後も高等小学校(高等科)や旧制中学に通う子が増えました。今より貧しい時代でしたが人々は一生懸命勉強に励みました。

通学時の持ち物は・・・

硯(すずり)箱、硯、大筆、小筆、墨(すみ)、石盤(ばん)、鉛筆、草紙(そうし)(綴(と)じ本)、綴(つづ)り方練習帳、筆記帳、図画用具、裁縫用具、そろばん、教科書、ぞうきん
【明治39年金谷尋常(かなやじんじょう)小学校(現島田市)の持ち物。衣服は筒袖の着物】

授業料

明治7年 義務教育 月額2銭7厘
明治20年 高等科 月額25銭
明治37年度から義務教育無料
明治43年 高等科 月額30銭 (『見付学校沿革誌』より)

夏休み

夏休みの友(左から昭和7年・昭和6年・昭和4年のもの)<展示品(2階)>

日本の学校制度は、明治維新の頃に欧米の制度を基本に作られましたので、当初の学校の1年は9月から7月まででした。明治25年(1892)には4月始業が正式となり、4週間の夏休みが定められ、明治34年(1901)には8月いっぱいの夏休みになりました。


学習用品はこんなものを使っていました

石盤と石筆
ノートや鉛筆はなかなか手に入らなかったため、その代わりとして使われました。地域によっては昭和初期まで使用しました。

鉛筆とわら半紙
西之島学校(現豊田南小学校)で、明治9年(1876)に鉛筆を1本だけ購入したという記録があります。価格は1銭でした。明治20年(1887)に現三菱鉛筆が量産を開始し、明治35年(1902)には1本1厘と価格が下がりました。
鉛筆の普及により、紙が使われるようになると、わら半紙が使われました。わら半紙は、細かく切った藁を材料にしているため、藁の形状が残ったままの製品もあったようです。

ガリ版印刷機<展示品(2階)>

謄写(とうしゃ)版(ガリ版)
ガリ版印刷機は、機械式の印刷機が普及する前(昭和50年頃まで)に使われた印刷の道具です。エジソンが原理を発明し、明治27年(1894)に新井真二郎が改良しました。鉄筆で書いた原稿にインクをつけローラーで1枚ずつ印刷しました。


服装
洋服は高価だったため、帽子だけきめる学校が多くありました。昭和10年頃から着物が減り、洋服に替わっていきます。それまでは、運動会も着物でした。

いわたのこんなお話 磐田偏②<西貝地区>

磐田原台地は遺跡の宝庫。こんな 身近にも遺跡があったんです!
~城之崎丸山(きのさきまるやま)古墳~

城之崎(一丁目)に丸山公園と呼ばれる公園があります。この名前は、公園の南側にあった「城之崎丸山古墳」からつけられています。もう今ではその様子を見ることはできませんが、どのような古墳だったのでしょう?ちょっと昔を振り返ってみたいと思います。

城之崎丸山古墳

上は城之崎丸山古墳を撮影した航空写真です。中央に古墳、斜め上にできたばかりの丸山公園が映っています。撮影したのはいつかはっきりしませんが、区画整理途中であることから、昭和45年(1970)前後のものかと思われます。当時の現況は山林と茶畑で、頂上には祠(ほこら)が祀(まつ)られていたそうです。

発掘調査中の城之崎丸山古墳(南から)

昭和46年に発掘調査が行われました。形状は名前のとおり円墳で、丸い形をしています。大きさは、直径が約60m、高さが6.5mありました。静岡県内でも大きな部類に入る円墳です。
周溝(しゅうこう)が墳丘の南側で、埴輪(はにわ)が北側で見つかりましたが、遺体を埋葬した主体部や副葬品(ふくそうひん)は発見されませんでした。古墳時代中期前半(5世紀前半頃)に造られたと考えられます。
発掘調査の終了後、古墳は工事で崩されて消滅しました。丸山公園の名前として、古墳が存在していたことを今に伝えています。


文書館だより 磐田市と前島密(まえじまひそか)、そして上越市

中泉救院備忘録

昨年9月から11月、新潟県上越市立総合博物館の企画展『前島密 ―越後から昇った文明開化の明星―』で、磐田市が所有する「中泉救院備忘録」が紹介されました。救院とは、災害などで困窮した人々を救済する施設です。紹介された文書は、明治4年(1871)に、この救院の取扱方を勤めた青山宙平が書き残したものです。明治元年(1868)に起こった水害では、中泉奉行だった前島密の要請により、中泉奉行所管内の寺院200余ヵ寺が結集して救院設置に乗り出しました。明治2年、中泉奉行から普済院規則が出され、救院には一時は50余名が収容されました。
上越市は、前島密の生誕地です。昨年、生誕180年を迎え、記念の企画展を行うために依頼があり、磐田市も協力しました。「郵便の父」といわれた前島は、郵便事業だけでなく、幅広く、近代日本の礎となる多くの事業に貢献しました。そのような人がかつて磐田の地にいたことは、たいへん誇らしいことではないでしょうか。

この企画展の図録は、上越市から寄贈され、歴史文書館で閲覧できます。


コラム 変わったものと変わらないもの 安藤寛

埋蔵文化財の調査や保護の仕事に30年間関わってきました。この間に調査や資料整理の方法は大きく変わりました。測量するのに、以前は平板(へいばん)という道具を使い、メジャーで距離を測って図を描いていましたが、現在では光波測量機(こうはそくりょうき)で記録しています。出土した土器など遺物の実測図は今でも人手で作成するのが一般的ですが、手描きの図の清書はパソコン上で行うようになりました。パソコンで清書した図は修正が簡単で、大きさも自由に変えることができます。しかし、石器や埴輪などの図で「微妙な線が表現できない」として、トレース用紙に製図用ペンで清書している人もいます。

松林山古墳と新幹線(N700A)

写真は一部だけ変わりました。デジタルカメラはその場で撮影した画像が見られるなど、たいへん便利です。しかし、発掘調査では、デジタル写真は補助的な存在で、現在でもフィルムが中心です。今どきフィルム!?と思われるかもしれませんが、フィルムは保存性に優れていることと、歴史の記録として「事実を改変できない」からです。私は、遺跡の全景写真は、色調がよいことからポジフィルムが最適だと思っています。昨年刊行した新貝地内の古墳の調査報告書には、調査した円墳の後方に松林山古墳と、ちょうど通った新幹線(N700A)を入れたベストショットを掲載することができました。


編集後記

春は出会いと別れの季節。文化財課でも、3月で2人の職員が退職します。文化財だよりの執筆者を2名失うのは担当としては辛いところです。惜別の涙か、花粉症の涙か・・・。いずれにしても3月は涙の季節です。

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