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磐田文化財だより 第140号

造船学者、数学者としての赤松則良

海軍中将・赤松則良(1841~1920)は、明治政府に仕え、造船技術の先駆者として大きな功績をあげ「造船学の父」と呼ばれています。また、磐田原台地の開墾に力を注ぎ磐田の茶園経営の基礎をつくりました。則良が建てた邸宅跡のうち、県指定文化財の門・門番所、市指定文化財の米蔵が残っています。現在、敷地内には旧赤松家記念館が建てられ、赤松家に関する展示を行っています。
本号では、「造船学の父」と言われた由縁(ゆえん)、そして数学者としての赤松則良について紹介します。

少年時代の体験

江川太郎左衛門英龍自画像(江川家蔵)

13~14歳の頃、下田奉行与力として赴任していた父・吉沢雄之進(1807~1859)とともに伊豆に来ていた赤松則良は、戸田港で、安政の大地震(1854年)の際に沈没したロシア軍艦「ディアナ号」の修理建造事情を見聞していました。
則良は引き上げられたディアナ号の大砲を見てその大きさに驚いたそうです。当時、砲術家として有名な江川太郎左衛門も見聞していることから、二人が出会ったと想像すると面白いです。
その後、安政4年(1857)16歳のとき、長崎海軍伝習所第3回伝習生として長崎に赴きます。則良は最も若い伝習生の組でした。伝習生がオランダ教官から学んだ学科は、算術、測量術、航海学、砲術、造船などで、則良が属していた組は特に熱心に学んだようです。
※弘化4年(1847)、則良6歳のときの旗本であった実祖父の跡を継ぎ、赤松姓を名乗るようになった


則良、オランダに留学する

文久3年 則良22歳

文久2年(1862)に赤松則良を含めた計16人が軍艦建造の視察・研究のため咸臨丸(かんりんまる)に乗船しオランダに留学します。
則良は、幕府が開陽丸の建造を発注していた造船所へ行き、造船学を学びました。ここでの経験が帰国後、軍艦を造る基礎になったのです。
滞在期間中は、小学校長のゴット・ハルトの世話になり、20歳の長男と特に親しくし、夜は机を並べて数学の問題を解き、欧州の歴史を繙読(はんどく)するのを課業とし、数学は則良の方が遥かに進んでいたので常に教える立場にあった、という逸話があります。オランダの20歳の青年に数学を教えるということから、数学力は相当のものであったと推測できます。

※繙読 書物をひもとき、読むこと


帰国後の赤松則良

則良は慶応4年(1868)、27歳のときに帰国し、静岡藩沼津兵学校一等教授取締として勤めました。兵学のための実用数学を教え、このとき使用されていた数学教科書は自らの著述によるものでした。学内の教授の中でも優れた教授だったと言われています。
その後、明治3年(1870)、勝海舟から明治政府に出仕するよう説得され、兵部省、後の海軍省へ勤めることとなります。

小学幾何画法(山田昌邦訳、赤松則良校閲)明治11年(1878)

この頃の則良に関するエピソードとして、明治5年(1872)年に政府の招きにより来日し、共に働いたオランダ人技師リンドが残した日記があります。日記によると、則良のこととして「彼の部屋は全て数学と物理の本で一杯になっている。そこからすると彼は非常に頭が良いに違いない。」と記されています。帰国後も熱心に数学、物理を研究していた姿がうかがえます。
造船に関しては、明治8年(1875)から10年頃まで、横須賀造船所長であった則良の設計をもとにして、国内で初めて西洋技師の手を借りずに4艦の軍艦を建造しました。ここから則良が「造船の父」と言われた由縁となったのでしょう。


東京数学会社(現在の「日本数学会」)への入社

明治23年 則良49歳

明治10年(1877)に設立され、則良は当初から入社しています。会社といっても現在の研究会のような組織で、東京数学物理学会にも入っていました。この頃、則良は海軍省副官(今の副大臣)、東海鎮守府司令長官(東日本海域の治安の責任者)を兼務しているなど非常に多忙な時期にも関わらず入社したのは、それだけ数学が好きでたまらないという現れだったのでしょう。

県指定文化財 旧赤松家門・門番所

明治13年(1880)1月、『東京数学会社雑誌』第21号に「人命保険に係る一題並びに解」と題した、現在で言う「生命保険」に関する論文を発表しました。沼津にいた頃に、当地の人口を調査し、年齢別人口をもとに、保険金額を算出した試論で、当時としては画期的な論文でした。
その後、明治20年代に則良は見付に邸宅をかまえました。静岡県を代表する明治の様相を残したレンガ造りの建物に、江戸から明治を駆け抜けた赤松則良の思いが残されています。


平成の大修理 ~府八幡宮 木造随身像(もくぞうずいじんぞう)~
府八幡宮楼門編は文化財だより112号、128号に掲載しています

府八幡宮楼門

府八幡宮楼門(県指定文化財)は左右に衣冠束帯を身につけた武官姿の随身像(市指定文化財)を安置しています。随身像は、材の劣化、欠けや継ぎ目の開きなどがみられた為、平成26年から2年間にわたり解体、修復を行われました。今回は、修復を終えた随身像について紹介します。

府八幡宮楼門→


櫛石間戸神(くしいわまどのかみ)(楼門むかって左)、豊石間戸神(とよいわまどのかみ)(楼門むかって右)

随神像の解体、修復

豊石間戸神(部分)

解体の際、随身像には目立った修復の痕跡がなく、江戸初期に制作された当初の姿を残している像であることがわかりました。目にはめられた水晶と、像と水晶を固定するために使用していた和紙もはずしました。汚れをとりのぞき、和紙を新しいもので包みなおしたことで瞳の白目部分がはっきりとしました。
欠けていた鼻や裾部分も修復され、顔側面や足部分の継ぎ目にはいっていた隙間についても、元の部材を傷つけないよう調整しながら組みなおしました。


装飾も復元しました

装飾

今回の修復では失われていた刀や弓、装束も復元しました。櫛石間戸神(楼門むかって左)の刀は、腐食がすすんでいたため元の部材をいかしつつ、その半分を新しく作りなおしました。


作られた当時の彩色

櫛石間戸神 左足側面

着色のほとんどは剥落していますが、背中の一部や足元などに、随身像が作られた当時の色が残っています。下地として白く塗られた部分や彩色された部分がこれ以上剥落しないように処置がされました。


開催中 歴史文書館 平常展 明治~大正 郡役所の公文書

郡役所とは、明治12年から大正15年までに、静岡県と町村との間にあった行政組織です。旧町村役場が郡から受領し、または郡へ提出した公文書のほか、旧家の襖の下貼りから発見された郡役所の公文書など、今まで公開されたことのない郡役所関係資料を展示しています。郡役所の公文書は県内では当館にしかない貴重なものです。

  • 期間:12月16日(金)まで 土・日・祝日は休館です
  • 開館時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)
  • 入館無料
  • 会場:磐田市歴史文書館(磐田市竜洋支所2階)

展示室の様子

襖の下貼り:古文書などの紙が、襖の下に何重にも重ねて貼られています。

●問い合わせ●
磐田市歴史文書館 磐田市岡729-1 TEL(0538)66-9112

職員リレーコラム ゆかりの地を訪ねて 木村哲朗

7月初め、旧赤松家記念館にゆかりのある地を訪ねました。
東京上野の「水月ホテル鴎外荘」と文京区本駒込にある「諏訪山吉祥寺」です。
「鴎外荘」は森鴎外が最初の妻である赤松則良の長女登志子と新婚生活を送るとともに『舞姫』等を執筆した家で、現在はホテルの食事処となっています。訪問時には食事客もなく、当時の面影が残る部屋をゆっくりと観ることができました。手入れの行き届いた庭を臨む座敷に座り、しばし文豪の気分を味わいました(入館料540円)

諏訪山吉祥寺

次に「吉祥寺」に向かいました。ここには赤松家のお墓があります。ドーム型の煉瓦造りは広い墓所の中でも一際目立っています。雑草を気持ちばかり抜いた後、記念館勤務のことを報告しました。また、隅にひっそりと佇む登志子のお墓にも手を合わせてきました。この曹洞宗の名刹には榎本武揚や順天堂・佐藤進の墓もあり、赤松則良の生涯と幕末から明治という時代の大きな転換期に思いを馳せてきました。
歴史の重みと繋がり、自分との関わりに不思議な縁を感じる半日となりました。


編集後記

日毎寒さが加わる季節になりました。「子供は風の子、大人は火の子」という言葉もありますが、遠州のからっ風に負けず、市内の文化財をみてまわりたいと思います。

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