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磐田文化財だより 第142号

磐田市歴史文書館 第18回企画展
水運の拠点から織物の町へ ~福田町繁栄の歴史をたどる~

  • 開催期間:平成29年1月10日(火)~2月28日(火)
    9:00~17:00(入館は16:30まで)土・日・祝休館(1/21土曜は開館)
  • 会場:磐田市歴史文書館(磐田市竜洋支所2階)
    ※平成29年4月15日~4月23日は中央図書館にて展示致します。

歴史文書館では湊町として栄えた「福田」の歴史を紹介する企画展を開催します。この企画展では古文書や写真・パネルなどから、物資流通の拠点だった福田湊の移り変わり、別珍・コールテンの産地として繁栄した福田の歴史をたどります。

福田湊(みなと)のはじめ

明治初期の福田湊絵図 当時の湊は自然の入江などの地形をいかして、船をとめていました

外洋に面したこの地域は古くから交易の拠点となっていました。太田川の河畔に位置する元島(もとじま)遺跡は、発掘調査で大量の舶来陶器や木製の碇(いかり)といった船に関わる遺物が発見され、中世(鎌倉~室町時代後半)に湊から運ばれた物資の集積地として繁栄したことがわかりました。

廻米送状之事(かいまいおくりじょうのこと)(嘉永3年)福田湊から米50俵を江戸の麻布に送った書状

江戸時代に開かれた福田湊は、河川流域から集められた物資を江戸に積み出す湊として発展しました。特に横須賀藩領、旗本領などから江戸に年貢米が運ばれ、その時の書状が各地に残されています。


福田湊の変遷

環洋社が所有していた帆船の図

福田湊は太田川の河口に開かれていたため、土砂の堆積や高潮などによって船舶の出入りが困難になりました。村役人であった寺田彦太郎、彦八郎父子は、河川の改修や湊の補修に取り組み、船舶の出入りを円滑にするよう努めました。明治14年(1881)には、海上輸送を業務とする「環洋社」が組織され、お茶などの物資が東京へ運ばれましたが、鉄道などの陸上交通が発達したことに伴い衰退していきました。しかし、海運で栄えた福田湊は、今も福田漁港として受け継がれ、地域の重要な拠点となっています。


織物業のはじめ

寺田淳平商店の営業案内

江戸時代の後期、足袋(たび)の底に使用される厚手の布を織る技術が伝えられ、福田に織物業が広まりました。
明治の中ごろ、福田の寺田源太郎、寺田淳平が東京のコールテン製織工場に弟子入りし、その技術を福田にもたらしました。淳平は、東京で独立し、「鬼足袋」の商標で販路を広げ、全国から注文が殺到したといいます。

寺田市十とその顕彰碑

明治の後半には、福田にもコールテンを織る工場が相次いで作られました。中でも寺田市十は、更に高級な別珍を作ろうと研究を重ね、大正の初めにその製法を確立させました。この技術は福田の織屋に広まりコールテンの一大産地となりました。織物工場は、剪毛(せんもう)、仕上など専門の工場に分かれ、分業体制が整っていきました。
※織り上げた布の畝(うね)状になっている緯(よこ)糸を切る作業


織物業の盛衰

戦前に福田座で開かれた演芸会の様子

大正末期には技術の改良も進み、剪毛の行程で、布を10mほど広げた状態で作業する「長台(ちょうだい)」が考案され、剪毛や染織などの技術講習も行われるようになりました。剪毛の作業は、一日に30、40km歩きながらの作業になるため学校を卒業したばかりの若い人たちに委ねられ、東北地方などから多くの労働者が福田の地に集まりました。また、演芸会や運動会などが企画されて、若者でにぎわう活気あふれる街となりました。

開拓団募集のポスター(昭和10年代)

しかし、戦時体制が強まると、織物工場も仕事道具である織機を供出したため、廃業するところが続出します。仕事を失った人たちの一部は、新天地を求めて満州の龍山(りゅうざん)に開拓村を開きましたが、敗戦により悲惨な逃避行を余儀なくされました。
戦後は、再び織物業が復活し、朝鮮戦争の特需景気を機に事業を拡大させ、「ガチャマン」といわれるような好況を迎えます。しかし、国全体で繊維産業が衰退していく中、福田でも昭和40年代を境に生産額も激減していきました。しかし、明治から受け継がれてきた別珍・コールテンの技術を後世に残そうという取り組みは、いまも熱心に行われています。
※1950年(昭和25)頃からはじまった好況。「(織機で)ガチャンと織れば万の金が儲かる」といった意味をふくんでいる。


<ご参加ください> 歴史学習会

別珍・コールテンの剪毛の技術を改良し、斬新なデザインを次々に世界に発信している星野さんのお話です。

星野秀次郎 「未来につなぐ匠(たくみ)の技~織物の町から世界に発信~」

  • 日時 1月21日(土)午後1時30分~3時 ●会場 竜洋支所2F会議室
    ※当日は展示をご覧いただけます 9時~17時(入館は16:30まで)
    <申込不要、入場無料> 直接会場にお越しください。
  • 問合せ 歴史文書館(竜洋支所2F) 磐田市岡729-1 TEL0538-66-9112

寺田用水を歩く 第4回(全4回)

磐田市の西側を南北に貫く、寺谷用水。用水路をぶらり巡れば、知られざる寺谷用水が見つかるかもしれません。寺谷用水の旅、最後を飾る4回目は、皆さんにとって最も身近な橋の話題です。

はし・橋・ブリッジ・・・ 君の名は・・・

寺田用水 橋 地図

寺谷用水沿いにはたくさんの橋があります。これがないと、わざわざ遠回りしなければいけなくなりますので、生活する上では橋の位置はたいへん重要です。
住宅地図を見ると掛下の一番圦(いちばいり)橋(右地図A)から海老塚・気子島(けごじま)にまたがる尼ヶ崎東橋(右地図B)までの間に94ヶ所の橋があり、うち50ヶ所程度は地名などに由来がある名前がつけられています。そのほか「農協橋」など、近くの大きな施設から取ったことがはっきりしている例もあれば、なぜこの名前なのかわからない事例もあります。また、会社や個人、屋号ではないかと思われる名前もあり、見ていくと面白いです。
橋は戦前からあったものですが、現在の橋は昭和59年(1984)までの用水工事の際に架け替えたものです。例えば「公民館橋」は最初「岩田橋」だったそうですが、架け替えの際に名前も変わったそうです。橋についてのエピソードをご存知の方、ぜひ情報をお寄せ下さい。


C 貴徳橋(平松)、D 公民館橋(匂坂中)平成19年撮影(現在、この建物は取り壊され見ることは出来ません。)、E 振農橋(富里)、F 山源橋(一言)

文化財課 企画展カレンダー

文化財課では、開催中の旧見付学校でのパネル展のほか、1月から歴史文書館で、2月からは豊田図書館での企画展をおこないます!ぜひこの機会に磐田の歴史にふれてみませんか。

企画展カレンダー

水運の拠点から織物の町へ

1月10日(火)~2月28日(火)
磐田市歴史文書館(磐田市竜洋支所2階)

昭和の戦争と磐田

2月4日(土)~19日(日)
豊田図書館展示室にて

昭和の戦争と磐田


<開催中> 磐田の中等教育 ~市内の高等学校5校の足跡をたどる~

※文化財だより第138号で特集しました

~3月31日(金)まで 月曜・祝日の翌日休館 旧見付学校1階西側展示室

職員リレーコラム 港町横浜散策 大村至広

イチョウ並木の色づく日本大通り

12月初旬に横浜を訪れる機会があり、少し時間があったので、街をぶらりと歩いてみた。
いうまでもなく横浜は、安政6年(1859)年に開港し、関東大震災、太平洋戦争の戦災などを経て、復興・発展してきた近代都市である。町中にも多くの歴史遺産が残っていた。
関内駅から横浜スタジアムのある横浜公園を通って日本大通りへ出た。かつては日本人居住地と外人居留地の境界であったという。大通り沿いには神奈川県庁、裁判所、開港資料館など、趣ある近代建築が並び、街路樹のイチョウの葉が鮮やかに色づいていた。
日本大通りを抜け、海沿いの山下公園では赤い靴の女の子の銅像や重要文化財の日本郵船氷川丸を、旧居留地区域にあるNHK会館では発掘された居留地の遺構を見学した。関東大震災で壊滅した居留地のがれきが埋め立てられて造成されたのが山下公園だという。レンガの建物基礎を見ながら、地震による都市の壊滅と復興を感じた。
帰宅ラッシュの波にもまれ、自宅に着いたのは午後9時過ぎ。またじっくりと散策したいと、シウマイ弁当を食べながら思った。


編集後記

冬将軍が到来する季節になりました。文化財課では企画展がはじまります。寒さ対策のうえ、ぜひお越しください。

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