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磐田文化財だより 第151号

今川家特集 ~②戦国今川氏の栄光~

今川家特集 ~②戦国今川氏の栄光~

戦国時代をテーマにしたドラマなどで必ずと言っていいほど出てくる「今川氏」。今川氏は、わたしたちの住む静岡県を本拠地とし、大きな恩恵をもたらしてきました。先月号の第1弾では、今川氏のはじまりと、磐田市とも関わりの深い三代・範国(のりくに)などを紹介しました。
今月は第2弾。今川家の絶頂期を見てみましょう。

因縁の遠江

駿河守護で今川家第8代当主の義忠は、応仁の乱の混乱や、当時遠江を支配していた今川家と同じ足利将軍家と親戚である斯波(しば)氏の内紛に乗じて、遠江国を狙うようになってきます。曽祖父が領有していた遠江国をもう一度手中にしようとした義忠の野望もあと一歩のところで、文明8年(1476)、戦の帰りに流れ矢に当って死亡するという大事件が起こります。
わずか6歳(※)の氏親(うじちか)が残され、風前の灯と思われた今川家ですが、氏親が成長すると叔父の北条早雲(そううん)と協力し、父親の仇を討ってついに永正5年(1508)遠江の守護となり、後に戦国大名と言われるようになりました。
(※)一説によると3歳
今川家家系図 ○数字は家督を継いだ順を表す
今川義忠が討ち死にした塩買坂付近の旧道(菊川市)
今川義忠が討ち死にした塩買坂付近の旧道(菊川市)

ついに義元が今川家当主に!

今川氏親のあとを継いだのは長男・氏輝(うじてる)でした。それにより、氏輝と同腹の三男・義元は4歳で仏門に入り、戦いとは無縁の暮らしをしていました。
しかし、天文5年(1536)、氏輝は弟・彦五郎と同じ日に謎の死を遂げ、義元に家督(かとく)相続の順番がまわってきました。
「ちょっと待った!」と手を挙げた異母兄・玄広恵探(げんこうえたん)(今川良真)と相続をめぐって戦争が起こります(花倉の乱)。この戦いに勝利した義元が17歳の若さで11代当主となり、駿河・遠江を支配することになりました。

花倉の乱で敗死した玄広恵探(今川良真)の供養塔(写真階段奥/藤枝市)花倉の乱で敗死した玄広恵探(今川良真)の供養塔(写真階段奥/藤枝市)

今川義元像(静岡市・臨剤寺蔵)今川義元像(静岡市・臨済寺蔵)


今川義元と磐田

義元による磐田の支配はどのようなものだったのでしょうか。
戦国時代にあった、金銭を払う代わりに町衆の支配を認める自治制度。大河ドラマ「女城主 直虎」でも‘気賀’で話題になりましたね。わたしたちの住む磐田市でも、天文10年(1541)、淡海国玉(おうみくにたま)神社の神官だった大久保家に残る古文書から、見付のまちが自治制を認められていたことがわかります。
淡海国玉神社(見付 県指定文化財)淡海国玉神社(見付 県指定文化財)
一の谷中世墳墓群遺跡の一部を移築・復元した一の谷公園(水堀)一の谷中世墳墓群遺跡の一部を移築・復元した一の谷公園(水堀) 見付にある一の谷中世墳墓群遺跡は、そうした時代を含む、中世(今から800年~400年前)の見付に暮らした人々が葬られた墓地です。自治制度は義元の柔軟な発想、大名としての包容力を示したものと思います。義元の支配下の人たちは、戦国時代にあって比較的自由に、また平和に暮らせたのではないでしょうか。

【訂正】前号で「範国の子孫は長男・範氏の家系(駿河今川氏)と次男・貞世の家系(遠江今川氏)に分かれ、後者は没落して領国も駿河国のみになってしまいます。」と記載しましたが、正しくは「範国の子孫は長男・範氏の家系(駿河今川氏)と次男・貞世の家系(遠江今川氏)に分かれ、後者は没落し、前者は駿河国を領国とし存続しました。」です。訂正してお詫び致します。

いわたのこんなお話 磐田南部編② 千手(せんじゅ)(千寿)

上古から南北朝の人々を書いた伝記『前賢故実』に描かれた千手(江戸後期~明治初頭刊行)

平安時代末期に実在し、東海道随一の美女ともいわれた千手(千寿)の墓と伝えられる「傾城(けいせい)塚」が、磐田市野箱にあります。傾城とは、城主が城を傾けてしまうほど夢中になる美女のことです。「傾城塚」にはどんないわれがあるのでしょうか。

千手は、平安時代末期(今から850年ほど前)、駿河国手越(現在の静岡市駿河区手越)の長者の娘として生まれました。母親が千手観音に祈って授かった子であることから千手と名づけられました。一説によるとこの観音が、現在の千手寺(磐田市千手堂)の本尊とも言われています。才色兼備な女性に成長した千手は鎌倉で源頼朝に仕え、囚われの身となっていた平重衡(しげひら)(平清盛の五男)の世話をするうちに、重衡に寵愛(ちょうあい)されるようになりました。重衡が処刑された後、悲しみにくれた千手は、24歳の若さで病死してしまいました。

傾城塚(中に碑があります)

野箱にある傾城塚には、「卍城松樹傾信女」(※)「寛文12年(1672)」などの銘のある石碑が建っています。銘文には、『この場所に老松があり、白拍子(しらびょうし)(千寿)を葬った墓所といわれていたが、寛文4年(1664)に松が焼けてしまったため、この碑を建てた』とあります。なぜこの場所に千手(寿)の墓があるのかはわかりませんが、地元では現在でも年に1回、千手(寿)の命日である4月25日前後に供養祭が行われています。
供養祭では、地元の長野小学校の児童が真っ赤な着物を着て「千寿手まり歌」という曲に合わせて舞を舞います。800年以上経てもなお語り継がれ供養されている千手(寿)の魅力がしのばれます。
(※)城は旧字の城

江戸時代に書かれた書物にも石碑が描かれています


「国分寺まつり in 遠江」が開催されます!

開会式の様子

とき:10月29日(日)9:30~16:00
ところ:遠江国分寺史跡公園(磐田市役所北側)

※雨天時は内容を変更して開催致します。
※お車でお越しの際はiプラザの駐車場をご利用ください。

国分寺としては全国で3か所しかない国の特別史跡のひとつ「遠江国分寺」を広く知ってもらうため、今年も「国分寺まつり」がおこなわれます。この機会にぜひお越しください!


全国軽トラ市開催につき駅前及びジュビロロードで交通規制がおこなわれます。8時~14時

国分寺展望ツアー

国分寺展望ツアー

現在、国分寺でおこなっている発掘の成果についても説明します。

市役所の6階から、史跡を一望できる絶好の機会です。
ツアー出発時間:①10:50 ②12:30 ③14:00
所要時間:約40分 集合場所:文化財課ブース

<その他のイベント>

国司一行国分寺参拝行列/塔本塑像(とうほんそぞう)つくり/地元幼稚園・保育園児による歌/もち投げなど

<問合せ先>

国分寺まつり TEL:090-9021-1327(実行委員会・今井)


職員リレーコラム 掛塚・貴船神社の「構(かまえ)獅子」 木村弘之

構獅子(貴船神社)構獅子(貴船神社)

掛塚・貴船神社の拝殿前には、遠州地方では見かけない狛犬が1対あります。今にも飛び掛かりそうなその姿形は「構獅子」と呼ばれ、瀬戸内沿岸や出雲などに見られる特有の狛犬です(参考:左下写真)。台座に牡丹の花の彫刻がみられます。
この狛犬を寄進したのは「中村喜三郎、村上濱吉」の二人で、「大正6年9月」に「備後国尾道市住」の石工に「広島産花崗岩(かこうがん)(尾道御影(みかげ)」で作らせ、運搬・設置したとの記録(『貴船神社記録』)があります。村上濱吉は、実業家・経済人として知られた村上太三郎(川袋出身)の養子で、3万冊の明治期の文学書を収集した「村上文庫」の創設者として知られています。また中村喜三郎は太三郎の右腕として働き、後に掛塚湊を仕切る回漕業者の一人として活躍した人物です。

八幡神社(広島県福山市)八幡神社(広島県福山市)

記録(同上)では「曽(かつ)テ岩手県大萱生(おおがゆ)金山ヲ経営シタルヲ記念トシテ献納ス」と記されています。おそらく、二人は亡き村上太三郎が金山経営で最盛期を迎えたかつての栄光を記念し、この迫力ある狛犬を地元に寄贈したのでしょう。それにしても、なぜ広島の狛犬だったのでしょうか。一説には、湊街にはこの構獅子が多いと言われています。叶うなら、全国に湊をかけ巡ったであろう喜三郎に夢で会って、その理由を問いたいと思っている今日この頃です。


編集後記

コラムの舞台、掛塚では、10月21・22日にお祭りがおこなわれます。前号でご案内した津倉家公開も同日です。ぜひお越し下さい。

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