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磐田文化財だより 第152号

今川家特集 ~③戦国大名今川氏の最期~

今川家特集 ~③戦国大名今川氏の最期~

今年の大河ドラマでも話題の「今川氏」。文化財だよりでは、静岡県を本拠地とし、戦国時代に大きな足跡を残した今川家を3号連続で特集してきました。第1弾では今川氏のはじまり、第2弾では今川氏の絶頂期と今川義元の見付支配についてお届けしました。
今月は最終回の第3弾。戦国大名としての今川氏最期の姿を紹介します。

無念、桶狭間(おけはざま)

桶狭間公園(愛知県豊明市 国指定史跡)

桶狭間公園(愛知県豊明市 国指定史跡)

駿河国・遠江国を手中にした今川義元は、三河国(愛知県東部)も勢力下に置き、「海道一の弓取り」とうたわれる大大名に成長します。
ところが、永禄3年(1560)、尾張に侵攻して油断した隙に織田信長によって、桶狭間で討ち取られてしまいます。享年42。
有力家臣だった二俣城主(浜松市天竜区)松井宗信(むねのぶ)もこのとき戦死します。松井氏の墓は桶狭間と菩提寺である磐田市上野部(かみのべ)の天竜院にあり、後者は市指定文化財になっています。


桶狭間公園近くにある松井宗信の供養塔

桶狭間公園近くにある松井宗信の供養塔

松井氏首塚と供養塔(上野部・天竜院 市指定史跡

松井氏首塚と供養塔(上野部・天竜院 市指定史跡)


あとを継いだ氏真は・・・

今川忌の臨済寺(静岡市葵区)

今川忌の臨済寺(静岡市葵区)

義元のあとを継いだのは長男の氏真(うじざね)でしたが、とても駿河・遠江・三河の3国をまとめる力はありません。三河は徳川家康が自立し、同盟を結んでいた甲斐国(山梨県)の武田信玄も縁を切る動きを見せます。氏真は駿河国を守るのに精いっぱいの状態になり、遠江国は領主がいない状態から、「遠州忩劇」(そうげき:非常に慌ただしいありさま)と呼ばれたと記録されています。


磐田市歴史文書館にて、12/15(金)まで公開中!(詳細下記) 磐田市教育委員会所蔵「成瀬家文書」

磐田市教育委員会所蔵「成瀬家文書」

永禄8年(1565)10月に今川氏真が、見付の米屋弥九郎に宛てた書状。遠州忩劇のさなかの弥九郎の働きを褒め、新たに恩給を与えています。文頭に今川氏真の朱印が、赤線部分に「遠州忩劇」とあります。

今川家・その後

桶狭間公園(愛知県豊明市 国指定史跡)

今川家累代の墓地(都指定旧跡)がある寺院の門前

(東京都杉並区今川2丁目)

永禄11(1568)年に、信玄が駿河に侵攻すると、氏真は駿河から離れ、今川家の重臣・朝比奈氏がいた掛川城にこもりますが、永禄12年(1569)徳川家康に降伏して命は助けられます。
その後の今川家はどうなったのでしょうか?公家と繋がりがある今川家で育ち、蹴鞠(けまり)の名手であった氏真は、家康から500石をもらって京都に移り、詩や歌三昧の優雅な余生を送り、その後江戸に移り、慶長19年(1615)に77歳で死没します。
さらにその後、氏真の孫が朝廷と幕府の間をとりもった功績から江戸の郊外に土地をもらい、明治維新にいたるまで旗本として存続しました。
血なまぐさい戦国の世にあって、氏真が無事に天寿をまっとうしたことは、ほっとした気持ちにさせられますね。


開催中
12/15(金)
土・日・祝休館
静岡発 直虎の時代 「遠州忩劇」と記されている文書のほか、見付の町衆と家康の逸話が記された文書などを展示しています。
今川氏真、武田信玄、徳川家康の攻防の中、天竜川両岸の遠江国衆や見付の町衆はどのような動きをしていたのでしょうか。当時の様子を史料から探ります。
  場所:歴史文書館 開館時間:9:00~17:00(入場は16:30まで)<入館無料>
問合せ:磐田市歴史文書館(竜洋支所2階)磐田市岡729-1 TEL:0538-66-9112

いわた 鉄道めぐり 第1回 磐田駅(全3回)

今号からはじまりました新シリーズ「いわた 鉄道をめぐり」では、磐田市内の鉄道にまつまわる事柄を、テーマごとに紹介していきます。
シリーズ1回目である今号は、磐田市の鉄道の玄関口でもある“磐田駅”をテーマにお届けします。

磐田駅の前身『中泉駅』

東海道開通当初の中泉駅 写真は『磐田市史 通史編』から転載東海道開通当初の中泉駅
写真は『磐田市史 通史編』から転載
磐田駅は、昭和17年に改称されるまで『中泉駅』という駅名でした。中泉駅は、明治22年(1889)4月19日に開業しました。開業当初の停車は1日3往復で、中泉―新橋間を約8時間でむすびました。開業にあたっては、地方自治の振興や経済活動の分野で活躍した青山宙平(ちゅうへい)らが所有地を提供し誘致に努めました。駅の南口にある石碑(写真右)は、磐田駅南口の開設を機に御殿遺跡公園から移築した青山宙平を讃える石碑です。 青山宙平を讃える碑青山宙平を讃える碑

今も残る中泉駅の痕跡

現在の駅舎は、平成12年に完成したものですが、今も中泉駅と呼ばれていた当時のものを見ることが出来ます。
大正4年に建てられた、ホームと駅舎の連絡通路(跨線橋(こせんきょう))の柱の一部で、「明治44年」「鉄道院」「川崎造船所兵庫分工場鉄道部製造」の刻印がある貴重なものです。昭和61年7月まで使用され、取り壊される際に保存し、駅の北口とホームにモニュメントとして残されています。駅の設置・開通は、磐田に大きな影響をあたえました。第2回は、その中でも中泉軌道についてとりあげます。

文書館だより 幻の廻船問屋

①宝運丸とかかれた文書と荷物の受け取りをまとめた帳面

今年4月、ある方から掛塚港に関わる1000点を超える大量の文書の寄贈がありました。この文書は、豊岡村西堀(現磐田市豊岡)の青島忠蔵という廻船問屋の書類で、明治期の材木など積荷物の送り状(荷物を送ったことを伝える書状)や仕切り状(荷物を受け取ったことを伝える書状)、帳面や証書類など、材木取引の様子がわかる貴重な資料です。青島家は、明治8年ころから30年代半ばころまで宝運丸という509石積みの廻船を持ち、掛塚港を利用し東京の深川や木場の材木商に材木を輸送していました。

②荷物のやりとりを書き記した証書類

しかし、残念ながら青島家は、現在は西堀にはなく、その後、どこに移ったのかも不明ということもあり、これまで幻の廻船問屋となっていました。今春、寄贈していただいた資料によって、その実態や船が利用していた掛塚港について更にわかっていければいいなと思います。

① ② 宝運丸とかかれた文書と荷物の受け取りをまとめた帳面
荷物のやりとりを書き記した証書類

職員リレーコラム 明治の音楽教育 平野徹

城山中学校合唱部がNHK合唱コンクールの静岡県大会金賞に輝きました。すばらしい成果ですね。では、学校の音楽教育はどのように始められたのでしょうか。
日本の音楽教育は唱歌として始まりましたが、正式な教科としては明治40年の義務教育が6年生までになった時からです。それ以前には「できるところはやりましょう」程度の指導だったようです。そんな中でも、見付学校では、明治23年の第4学年卒業試験の問題に、唱歌科「五常ノ歌ノ内 仁礼ノ二曲」とあります。つまり、見付学校では早くから唱歌の指導をしていたことがうかがえます。しかし、明治29年の試験には唱歌科の問題は出ていません。まだまだ教科として定着していなかったのかもしれません。

足踏み式のオルガン(左:昭和30年代製/右:大正初期製)

足踏み式のオルガン(左:昭和30年代製/右:大正初期製)

現在、旧見付学校には6台の足踏み式のオルガンがあり、それぞれに特徴があります。楽器や音楽の歴史、各教科の内容を調べてみるのも楽しい物です。

材質や鍵盤の数が作られた年によって違います。ぜひ見比べにきてください。

開館時間:午前9時~午後4時30分
休館日:月曜日・祝日の翌日 12/29~1/3
磐田市見付2452 TEL/FAX:0538-32-4511



編集後記

いつも間にか行く秋を惜しむ季節となりました。冬をむかえる準備をしつつ、残り少ない秋を楽しみたいと思います。

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